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北海道文学を中心にした文学についての研究や批評、コラム、資料及び各種雑録を掲載しています

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勝手にweb書評REVIEW

勝手にweb書評8-1   1〜10  2005〜2006

ブログにあれやこれや書いていた時期がある。2005年から1年弱、毎週2冊程度、読んだ本のメモ書きをアップすることを義務とした。ウェブ用なので算用数字で横書きである。転載に当たってはウェブ文体の疾走感を残すために、漢数字には戻さないままにした。星印は読後のインパクト(印象)を視覚化したもので、本質的な意味はまったくない。
著者には知人やのちに知人になる人もいるが、内容にはまったく忖度はない。失礼にもほどがあるが、無頼の性をお許しいただければ幸いです。


★★★
<1>絲山秋子『逃亡くそたわけ』(中央公論新社)
 第133回直木賞の候補作となったが、残念ながら選に漏れた。絲山秋子さんはどちらかというと芥川賞系の人であるが、初めて直木賞にも顔を出した。筆達者ということか。前回『対岸の彼女』で直木賞受賞の角田光代さんも芥川賞系であったので、よく似ている。精神病院を抜け出した男女2人のロードムービー風の物語。なんで逃げるのか、わからん。わからんけれど、逃げたい時ってあるじゃない。その気持ちがわかるあなたは結構病んでいるのかな。絲山さんの作品は『海の仙人』『袋小路の男』を読んでいるが、乾いたユーモアと叙情がある文体だ。心に透明なやさしさが残る。しみるのだ。ちょっと寂しい若い人は一読の価値アリか。癒やしとは違うと思うけれど。
★★☆
<2>森下賢一『骨肉 父と息子の日本史』(文春新書)
 この父にしてこの子あり。不肖の息子。親の七光り。トンビがタカを産んだ。親子関係はいろいろに言われるものだ。本書は日本史の比較的有名な親子を俎上にのせ、実相に迫ろうとした読み物。著者には先に『不肖の息子』『日本史 不肖の息子』『国を傾けた女たちの手くだ』(いずれも白水社)があり、問題親子ものは得意中の得意である。ちなみに、森下さんは私のお酒の先生でもある。東京時代、よく銀座から深川・木場の先生の仕事場まで車で送ったものである。『いい酒と出会う本』『銀座の酒場銀座の飲り方』などの著書もあり、銀座の飲み屋ならピンからキリまで知っているという人物。博学ぶりは世界中に及ぶ。なにしろルーブル美術館は自分ちの庭くらいに知っている(らしい)。さて本書、「武田信玄と勝頼」「田沼意次と意知」「犬養毅と健」など16組の親子に言及している。いささか古い人ばかりなので、若い人には少々つらい。教訓を汲むのではなく、「意知は屋敷で女中たちに相撲を取らせるのが好きだった」「(勝海舟が)狂犬に睾丸を噛まれた一件は、生殖能力に後遺症はなかった」「(足利義持は)次の将軍はくじ引きで決めよ、と言い残した」といった役に立たないトリビア知識を夏休みに楽しみたい。
★★★★★
<3>奥田英朗『サウスバウンド』(角川書店)
 父と子の違いを分析したのが森下賢一『骨肉』だとすれば、本書は父に学ぶ正しい生き方の物語である。父親・上原一郎。息子・上原二郎。そして母親・さくら。姉・洋子。妹・桃子。小学6年生の上原二郎の目から、世の中の大勢に媚びず筋を通して生きていく両親の姿を鮮やかに描いている。その父親と言えば、国民年金を払わず、日本人であるが日本国民をやめると大見得を切るから大変だ。対人関係に問題ありで、東京から沖縄の果てに移住することになる。オビを書き写せば「型破りな父に翻弄される家庭を、少年の視点から描いた、長編大傑作。21世紀を代表する新たなるビルドゥングス・ロマン!」とあります。心に刻みたい決めゼリフも多い。奥田さんと言えば『イン・ザ・プール』の神経科医・伊良部一郎さんのキャラが立っているが、本作の上原一郎も相当にすごい。化石のようなアホな元過激派ライターなりと笑って読んでいると、次第に泣けてくる。思わず、二郎君、苦労してるな、って同情したくなる。しかし、子は親の良いところを見る。逆境にあってこそ、子どもはしっかり自立していく。展開も見事なり。文句なしの傑作である。

<4>岡野宏文・豊ア由美『百年の誤読』(ぴあ)。
 今ごろ読んでいるのか! と読書家の皆さんには怒られそうです。見てはいても買うのが面倒でした。スミマセン。1900年から100年間のベストセラー100冊と最近の9冊をメッタ刺しで論評する文芸漫談。2人はサブカルチャー系の雑誌ライターとして活躍中だそうだが、そのエネルギーはすごい。企画自体が既存の評価に関係なく、自分たちの感覚で「流行本」を捉え直そうとするものである。「そんなに大見得切って大丈夫?」という心配は最初から拒否されている。それにしても、切れ味は鋭いところも多々あるが「誤爆」も少なくない。たぶん、現代の感性で作品を読んでいくので、生じる落差が大きいからだ。道産子作家の原田康子さんや三浦綾子さんなんかはボロクソに言われているが、三浦綾子さんを「現在の“誰でも作家”のはしりみたいな存在」というのは相当ピントがずれている。チャート式参考書のような解読法の限界か。 
 
<戦争の体験は語り継ぎたい>
 戦争が終わってから60年が経った。その気持ちは簡単には言い尽くせない。今年はメディアに多くの記事が載ったが、どれも何かしら心に残るものがあった。
 月刊「文藝春秋」9月号に「運命の8月15日」56人の証言という企画があり、読み応えがあった。とりわけ印象的だったのは、野中広務元衆議院議員(当時19歳)の「切腹を止めさせた大西少尉」という一文だった。
 高知の部隊で終戦を迎えた野中氏は模範的な軍国青年だった。軍隊に取られた時は、これで天皇陛下の御楯となれる、と素直に思ったというほどだ。だが、突然の敗戦に我を失い、仲間5人ほどで桂浜に集まり切腹して果てようとした。さあ、これから自裁という時に、上官の大西清美少尉という人が馬で駆けつけてきた。そして言った。
 「お前たち、何を考えているんだ! こんなところで自分の腹を掻き割って死ぬ勇気があるのなら、東京へ行ってこの戦争を始めた東條英機をブッ殺して来い。それでなお命残ったら、この国の再建のために力を尽くせ」
 それで野中氏は目が覚めた。東條英機の殺害はならなかったが、政治家として日本のために尽くすことになったのだ。大西氏の消息は不明となっていたが、このほどようやく甥と連絡がついた。5月に実家とお墓を訪ねた野中氏は「あなたのお蔭でで生かせていただきました」と語りかけ、「戦後60年の重い荷物を一つ下ろしたような気がした」と記している。
 もう一つ印象に残ったのは「8月の空にスキップ」という作家の渡辺淳一さん(当時11歳)の文章だ。8月15日の玉音放送が死と隣り合わせの生活からの解放だったという。「よかった、これで父も母も、自分も死ななくてすむ」と思った。渡辺さんはその心境を次のように書いている。
 「これからどうなるのか、未来はまったくわからなかったが、とにかく8月の青い空に向かって、口笛を吹きながら両手を広げて、スキップしたかった」
 大衆の原像ということをずっと考えている私には、事の善し悪しはともかく、野中氏の過激さがよくわかる。私もきっと腹を切るか東條を切るかしていたような気がするからだ。一方で、渡辺さんの吹っ切れた感じも好きだ。重苦しい戦争権力が崩壊した瞬間には、青空にスキップしたくなるに違いない。大衆の生き方は、この二人の反応軸の空間の中にあるに違いないように思う。
 人が生きているのも、だれかによって生かされているものだ。そして、「我が心の善くて殺さぬには非ず」でもある。戦争の体験は語り継がれねばならない。そして、戦争やテロは起こしてはならないのだと、あらためて思うのである。
★★
<5>梯久美子『散るぞ悲しき』(新潮社)
 サブタイトルに「硫黄島総指揮官・栗林忠道」とある。すなわち、米軍と日本軍の戦略拠点・硫黄島争奪の攻防で、日本側の総指揮を執った栗林の人間像がていねいに描かれている。栗林は軍国主義者というよりは米国留学の経験もある、開明的合理的な人物として描かれている。その彼がいったん局地戦を迎えては本土・東京の攻撃を遅らせるため単純に自滅するのではなく米軍を徹底的に痛めつけ最後の最後まで相手を倒すために全力を投入する戦術を採った。合理的であるがゆえに、なんとも痛ましい。栗林の硫黄島派遣の背景には「指揮能力を評価されてのことだったというのが定説だが、一方で、彼のアメリカ的な合理主義が嫌われ、生きて還れぬ戦場に送られたとする見方もある」という。なんとも日本軍の発想の愚かさが浮かぶ。その彼にして2万の兵士はほぼ玉砕している。指揮官としての優秀さはわかるが、戦後60年、個々の人間の素晴らしさとは別に、戦争の非人道性を痛感する。
 著者は1961年熊本県生まれ。札幌で育ち、北大出身の新鋭ライター。吉本隆明『ひきこもれ』『超恋愛論』(大和書房)の聞き書きを担当しているそうである。
★★★★
<6>佐藤卓己『8月15日の神話 終戦記念日のメディア学』(ちくま新書)
 8月15日。60年目の終戦記念日は静かに過ぎた。だが、8月15日が本当に終戦記念日なのか、と佐藤京大大学院助教授(メディア史、大衆文化論)は問い直す。虚を突かれた。そんなことまじめに考えたことなかった。昭和天皇の独特のイントネーションの玉音放送が当たり前のように頭の中でリフレインしていたからだ。
 確かに国民多数は玉音放送で戦争終結を知らされた。しかし、日本の敗戦(降伏文書調印)は9月2日である。一方で、8月14日にポツダム宣言の受諾を伝えている。国内的には15日でも対外的にはどうなのか。佐藤氏は8月15日=終戦記念日がメディアが記憶を演出し(玉音放送を国民が直接聞いたわけだが、その国民的体験は後からメディアによって創られた集合的記憶でもあった)、保守派が天皇聖断を「神話」化し、進歩派が国体からの「解放」「革命」と受容した相互関係で制度化されたものであることを明らかにする。
 厳しいメディア批判もある。玉音放送を聞く国民の写真の多くは「やらせ」であったからだ。文中には北海道新聞の紙面への言及もある。さらに、夏の甲子園野球大会が「夏のニュース製造機」であると同時に、「日本国家への犠牲的忠誠の象徴的儀礼」も含んでいたことを指摘するとともに、「極度に『不浄』が忌まれることも、甲子園の『球宴』とお盆の『み魂まつり』の連想を容易にする」とも述べている。
 佐藤氏はお盆の8月15日を国内向け「戦没者追悼の日」に、9月2日を近隣諸国との歴史的対話をめざす「平和祈念の日」にしたらどうか、と提案する。一案であろう。ラジオの役割分析を含め、示唆に富み教えられるところの多いメディア・リテラシーの好著である。未読の方は読むべし。
★★
<7> 荻原浩『明日の記憶』(光文社)
 東京にいる読書大好きの「文学小娘」さんから、「山本周五郎賞受賞。来年、渡辺謙主演で映画化。若年性アルツハイマーになってしまった広告代理店勤務の主人公。あまり悲惨ではないが切ないのう〜(;_^)という感じ。」というメールをいただいたので、なにわ書房で本書を買って読んだ。オビには「全国書店員が選んだいちばん!売りたい本 第2回本屋大賞2位!」とある。うーむ、評判の本だったのだな。
 で、読後感。切実でした。50歳以上の人はぜひ読むべきだな。なんたって若年性アルツハイマー。隣まで来ているんだから。これを受け入れる覚悟は早いうちにしたほうがいいに決まっている。谷口孝男53歳。「頭の上に、空が落ちてきた」って気持ちがわかります。人はみな病気が嫌いに決まっているが、お釈迦様の昔から、病とは共存して生きるしかないのだから。ラストシーン。美しいけど悲惨です。
 映画の件であるが、堤幸彦監督、渡辺謙と樋口可南子の組み合わせで、東映から2006年に公開されるとのこと。果たして原作の不安感をどこまで表現できるか見ものだ。
 おまけです。学生時代の友人の児島のくだりに一言。「児島は長かった髪を私よりあっさり切り、反動だとなじっていた新聞社の入社試験に合格した」とあるが、左翼の学生さんの場合、新聞社を「反動だ」とは言いませんな。こういう場合は「ブル新となじっていた」と書くのが定番です。しかして、新聞社はそう言われるほど「ブル新」じゃありません。マッチポンプでなんですが、念のため。
★★
<8>川崎賢子『宝塚というユートピア』(岩波新書)
 昔、東京で名ばかりの演劇記者をしていた。宝塚では可憐な娘役の黒木瞳さん(85年退団)を見せていただいたし、宝塚歌劇場の前で別れを告げる天海祐希さん(95年退団)の神々しい姿も見ている。だから? それだけです。すみません。
 宝塚が大衆演劇のトップヒッターであることだけは分かっていたが、その幻想世界が与える社会的意味など考えたことはなかった。「小林一三(いちぞう)は、芸も売り身も売る女というイメージを切断するために、花柳界を想わせる和楽器の使用を禁じ、演技者を女優ではなく『生徒』と定義し、『良家の子女』イメージの形成につとめた。/宝塚では、交通、劇場、劇団、周辺メディアまで、その環境は演出されたもの、創られたものだった」−。このさらりと記した川崎さんの指摘に、すべてのテーマは提示されていると思う。
 宝塚歌劇団が満州国承認を感謝してドイツ、イタリアを親善公演で訪れ、日本軍兵士のため中国慰問公演をしていることをあらためて確認する時、現実世界での政治の優位性に非情さを思わざるを得ない。新書らしく目配りの効いた楽しい入門書である。オビに「観ずに死ねない!」とあるが、「観ずに死ねるか!」と開き直れないのが岩波文化の限界か。川崎さんは『少女日和』(青弓社)などの著書のある気鋭の研究者。
★★★
<9>斎藤美奈子『誤読日記』(朝日新聞社)
 目の調子が悪くて、ずっと本を読んでいなかったりすると、なんだか世の中に遅れを取ってしまったような錯覚に陥る。実際は本なんて読まなくても、人間の判断や行動はそんなに変わらないのだけれど。
 それでも、気になる時にはダイジェストが必要だ。そんな不安を一掃して余りあるのが本書、『誤読日記』である。なにしろ切りまくった本は全部で175冊。なにしろ本の核心をがっちりと掴み、寸鉄人を刺すのである。
 たとえば、名文説もあるコラムに対して「天声人語は接ぎ木が好きだ。しかも木に竹を接ぐような『ウルトラ接ぎ木』を平気でやる」とバッサリ。(「天声人語2000年1月−6月」)というふうに。小見出しも「偉大すぎる父を持ったサラブレッドの悲喜劇」(長嶋一茂「三流」)と鋭い。さらに本とは関係なく「イラクや北朝鮮を『ならず者国家』と呼ぶアメリカはじゃあ何なのか。ふと思いついたのが『番長国家』という言葉である」(サミュエル・ハンチントン「文明の衝突」)と決めゼリフをぶつけてみせる。
 そして、真骨頂。「長崎弁、よかとー。おかげで、ばりハマッてしまったばい」(なかにし礼「長崎ぶらぶら節」)という卓抜な文章模写である。「ダジャレ人間、これ以上はいらなイジョー」(多治家礼「ダジャレ練習帳」)と中年オヤジのダジャレをダジャレで笑って見せる異能ぶりである。もはや斎藤美奈子はミーハーと言うよりも恐山の口寄せのイタコ=霊媒師もびっくりのエンターテナーである(って、誉めてないか?)。
★★★★
<10>深沢七郎『生きているのはひまつぶし』(光文社)
 28年ぶりに、死んだはずの深沢七郎が戻ってきた。「未発表作品集」である。ピンクで統一され、懐かしいショットも満載の楽しい毒入り本である。
 「楢山節考」という日本の土俗風習を見据えた傑作で一世を風靡した。おりん婆さんは姥捨ての道を自ら選んでいく。せつない。映画にもなっているので、多くの人が知っていることだろう。さらに、「風流夢譚」では尊皇右翼のテロ事件を引き起こし、渦中の人となった。それ以降、放浪をしたり、埼玉に農場を開いたり、さらには今川焼き屋を始めたり、独特の世界観で一部に熱烈な支持者をつくった。
 人間滅亡教とも言われる思想はニヒリズムとオプティミズムが表裏関係にある不思議な人生観であった。「東京は50人くらいでよい。そうなれば、水はきれい。公害もない」というのは「世界が100人の村だったら」的な啓蒙と無縁の対極で、人間なんて環境にとって一番の悪だという透徹した思いが貫かれている。
 本書ではそのような深沢節が爆裂している。
 「日本人っていうのは、みんなうすぎたない(うすぎたない−には傍点)やつだよ、みんな。権威にはウンと弱くてね」
 「野球みたいに、大勢でやるもんは、ひとりの人のやったことなんかなんら関係がなくて、負ければ全体の責任に押しつけちゃう。(中略)野球って、つまんない遊戯だと思うけどね」
 北海道についても辛辣である。
 「札幌っていうところは、非常に近代都市でね、やっぱりひとつの、日本全国で一番植民地的なところがあるね。バーへなんか行くと、ポケットの中のもんでも、みんなとられちゃったよ」という具合である。
 関心ある人は読むべし。
 ともかく全編に、脱力系の発想が充満している。そして、賛否はともかくとして、深沢七郎の放言はひとつの予言として、私たちの前に残されていたことを知るのである。透徹した文学者の考察が人間の本質に深く垂鉛を届かせている典型の書である。


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