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北海道文学を中心にした文学についての研究や批評、コラム、資料及び各種雑録を掲載しています

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渡辺淳一 「文壇作家」の無頼

 日本を代表するベストセラー作家、上砂川町生まれ札幌育ちの渡辺淳一さんが二〇一四年四月三〇日、八十歳で亡くなった。数年前から前立腺癌を発症していたが薬が合わず、絶世の美男子も少しむくんでしまった。病気の進行が心配されていたが、それほどでもなかった。その後、階段から転落して動けなくなり、東京・渋谷にあった事務所には出ず、自宅でゆっくりするようにした。いわば多忙な作家にやっと訪れた静かな暮らしであったが、次第に食が進まなくなった。これが先生のエネルギーあふれた体力を奪い、医師の往診を受けた日の夜、何かに導かれるように息を引き取ったという。
 渡辺淳一さんと言えば、「男女小説」と自称した恋愛小説の達人であった。『ひとひらの雪』『化粧』から『失楽園』『「愛の流刑地」を頂点に多くの恋愛作品がベストセラーとなり、そのいくつかは映画化され大ヒットした。主人公の男性は多くの情事の主役でもある。その人物は作家、渡辺淳一さんご本人が少なからずモデルのようであり、問われると渡辺先生も否定しなかった。ゆえに、「現代の光源氏」のごとくモテモテの作家としてイメージされた。
 本当にモテたのだろうか。見聞したエピソードをつないでみる。@七月末に東京・帝国ホテルで開かれた葬儀を兼ねたお別れ会後の懇談の場。会場には「失楽園」にヒロイン役を演じたKHさんやKNさんがいたのだが、エッセイストの阿川佐和子さんが「一緒に仕事をした女性で、何もなかったのは私くらいじゃないでしょうか」と挨拶、会場には重い笑いが走った。A第百四十九回直木賞受賞式。渡辺先生は車いすでパーティー会場に登場。いささか鬱々としていたが、ボディコン風衣装の作家KMさんが現れると、渡辺先生は笑顔になり、手はしっかりボディコンのお尻に。B「私、先生の愛人になりたいの」と売り出し中の女性作家が言った。確かに色白で細面、華奢な体は先生のタイプのよう。でも、渡辺先生曰く「どうも、うるさい子はねえ」と相手にしなかった。
 ほんの一部であるが、筆者の知る限り、渡辺先生はとてもモテた。けれども、誰でもいいというような女性好きではなかった。自分なりの価値観に合致する女性にはアタックし女性の側もアタックしていた。いわば相思相愛に近い。
 渡辺先生の凄いところは、そうした恋愛を作品の中に生かすとともに、自らの衰えも医師(科学者)らしく凝視して、作品に取り入れた。ちょうど七十五歳の頃にお会いすると「僕ももう後期高齢者だよ。いやな言葉だねえ」と時の政府の老人政策を憤った。「年寄りは家に引っ込んでいればいいんだ。山の中の老人ホームにいればいいんだなんて、見下している。冗談じゃないよ。高齢者こそ、社会や会社のしがらみから離れて、自由に生き、恋愛もすればいいんだ」。その頃よく言われたのは「谷崎(潤一カ)だって、高齢者の性を描くことはできなかった。僕はね、自分を材料にかつて誰も書いていない老人文学に挑戦するのだ」ということだった。
 そうして問題作『愛ふたたび』を書いた。これは七十三歳で「不能」になった整形外科医の「気楽堂」こと、国分隆一郎のいわば愛を探す旅である。もうダメになった男だがそれでも女性を愛したい。滑稽だけれど、なんという真剣な物語だろう。方向は逆だが、ちょうど思春期の童貞少年が女性を好きになっても立ち止まってしまうのと似ている。そうした老人の葛藤を作品として書き残すことは渡辺淳一という作家の、自らの存在を徹底的に切開した私小説家も驚く本物ぶりを教えてくれるのではないかと思う。ちなみに、同作は一部地方紙に連載されたが、大半が連載を中止するという逆流に遭っている。新聞は「良識」で判断したのだろうが、渡辺先生は「真実」を書きたかったわけで、ラジカルな表現者として、見事なり、と言わざるを得ない。
 ちなみに筆者は渡辺先生が六十九歳の時、北海道新聞などに連載した小説『エ・アロール』という作品の担当編集者として、一年近くご一緒した。タイトルはフランスのミッテラン大統領が隠し子のことを新聞記者に聞かれた時、表情を変えず「それが、どうした?」と答えたことから付けられた。フランス語ではどちらかというと「エ・アロー」もしくは最後に小さく「ル」がつく感じらしいのだが、「ロー」と音を伸ばすと、今ひとつ締まりがないので、「エ・アロール」と日本語発音とした。先生も「それでいいよ」と快諾してくれた。
 新聞用の告知文をお願いすると、先生は私の作った原稿用紙に鉛筆でさらさらと書いてくれた。

  かつて、フランスのミッテラン大統領は、ある記者から、「あなたには、婚姻外の子どもがいるという噂があるが、本当か?」と尋ねられ、即座にうなずき、エ・アロール(それが、どうしたの)とつぶやいた。今度の小説は、そういう洒脱で、なにごとにも揺るがない、男 を主人公にしたいと思っている。

 渡辺先生にいただいた「執筆宣言」のコピーは筆者の宝である。
 さて、その「エ・アロール」は銀座のど真ん中にある赤いネオン輝くビルにある医師のいる老人のための施設である。そこでは世間の束縛から解放された高齢者たちが楽しく、気ままに生活している。もちろん、命尽きた人は穏やかに旅立っていく。『愛ふたたび』と同じく、セックスは必ずしも体が交わることではなく、触れあうだけでも心は結ばれているのだ。渡辺先生の理想郷がここにはあるのである。
 渡辺文学では主人公には先生が投影されているが、他の登場人物はどうなのだろうか。ちなみに、『エ・アロール』では担当の編集者、新聞関係者たちの名前が登場人物に借りられている。筆者の場合、以前はある出版社の役員をしていた六十八歳、六〇八号室の入居者として登場している。
 この谷口なる人物、「集会室でポルノ鑑賞会を開きたい」と言い出すのである。とりわけ日活ロマン・ポルノが大好きである。最初は初期の名作「団地妻・昼下がりの情事」を見たいというのだが、あまり目立たないものがいいとして、「四畳半襖の裏張り」という作品を上映することになる。十人も集まればいいと思っていたら、なんと三十人を超える大盛況となる。映画は濡れ場ばかりではなくシベリア出兵など、極限を生きる人間の物語でもある。この場面から、渡辺先生の中には戦争に対する批判もあったのではないかと想像する。
 筆者はこの「日活ロマン・ポルノ」好きの谷口という役がお気に入りで、一緒に仕事をしたお礼にいただいたと思っており、いつまでも大切な思い出になっている。
 そのように渡辺先生はスタッフを大切にする人だった。楽しみを分け与えてくれる人だから、周囲にはいつも人間が集まった。若い作家は才能のある作家にもやさしく厳しく接して、育てようとしていた。
 先にも書いた七月のお別れの会で、作家の林真理子さんが「先生が亡くなって、文壇というものがなくなるんじゃないかと思いました。あの楽しかった日々はもう来ないのでしょう」と弔辞で述べたのも、渡辺先生が動くと風が立つ、文壇という熱い文学好きの集団の姿を懐かしんでだったろう。
 渡辺淳一さんが亡くなってできた大きな空洞。これを埋めることは簡単ではないが、それもまた後に続く北海道作家にとっては避けられぬ試練であろう。

(「百合が原文芸」第6号、2014年10月所収)


「直木賞受賞40年」ーー渡辺淳一氏に聞く 
 「失楽園」「愛の流刑地」「鈍感力」…。数多くの話題作、ベストセラーを執筆してきた作家の渡辺淳一さん(空知管内上砂川町出身)が「光と影」で第63回直木賞(1970年上期)を受賞してから今年で40年となる。先日は東京で「直木賞受賞?年を祝う会」も開かれた。北海道出身の作家として最前線で活躍を続けている渡辺さんに故郷と文学に寄せる思いを聞いた。
 ――渡辺さんの文学は「阿寒に果つ」「リラ冷えの街」といった北海道を舞台にした秀作を原点に、都会的な恋愛小説へと昇華してきたように思います。渡辺さんにとって北海道とは何でしょうか。
 渡辺 北海道は永遠の故郷ですよ。僕は札幌の同人誌「くりま」から出発した。そこに書いた「死化粧」で新潮同人雑誌賞をもらった。直木賞受賞の5年前のこと。そこで(小樽出身の詩人で小説家で評論家の)故・伊藤整さんに出会ったのが大きい。縁だね。作品の舞台は北海道を超えるようになったけど、僕の文学の故郷は今もそこにある。
 ――北海道出身の朝倉かすみさん、喜多由布子さん、桜木紫乃さんら女性作家の活躍も目立ちます。新しい書き手に対するアドバイスがあれば。
 渡辺 最近はどの世界も女性がしっかりしている。小説は体と心で書くもの。男の作家は頭で書きすぎている傾向がある。「官能小説特集」なんてのも今は女性作家が並ぶよ。知識で書いても、心に染み渡るリアリティーなんて生まれないし、響かない。読者も深くないとすぐわかる。
 ――北海道から東京に出て、直木賞を得て変わったことは何だったのでしょうか。
 渡辺 伊藤整さんがある時言ったんだよ。「君ね、必ずベストセラーを出しなさい」。そうすると、一流の編集者が集まってきて、自分の眠っていた、あるいは、ないと思っていた才能が芽生えてくる、というんだね。
 受賞してすぐ「無影燈」「阿寒に果つ」などが大いに読まれた。編集者たちがきたよ。その人たちに支えられた。ほめられ、おだてられると、才能は伸びる。だれも寄ってこないと才能というものはしぼんでしまう。
 ――渡辺さんは年賀状で俳句を詠んでおり「元旦や まだ書くのかと 我にきき」との一句もあります。直木賞40年を超えて、これからの渡辺文学について教えてください。
 渡辺 僕も75歳。この年まで(第一線で)書き続けている作家はあまりいないんだ。年を取っているってことは、最大のメリットだし、力なんだよ。70代以上は活字をしっかり読んでいる世代でもある。若い作家には想像でしか書けない75歳を過ぎた人間の内面や現実的な葛藤を、的確に書いていきたい。それが僕の作家としての仕事だ。
                               (2009年9月)


原田康子の方へ

原田康子 『挽歌』から『海霧』へ

 原田康子は一九二八年一月、東京に生まれ、一歳で釧路に移る。渡辺淳一より五つ年上である。当時の原田家は家運が衰えていたとはいえ、曾祖父は釧路開祖の一人という名家。その一族の女三代の物語が最後の代表作『海霧(うみぎり)』となった。
 釧路市立高等女学校時代に岩波文庫を通じて外国文学に親しみ、自ら物語を書く早熟な文学少女であった。思春期は戦争に突入していた時代である。オホーツクの津別のベニヤ工場で勤労動員され、釧路空襲にも遭遇する。

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井手都子の方へ

 俳句への情熱を傾け続けた井手都子さんの人と作品について、紹介する。……道東の本別町に生まれた井手都子さんはとても幸せな時間を四歳までは過ごした。しかし、父親が満州(中国東北部)へ軍馬と共に軍属として赴くことになり、母と子ども三人の一家は道北の名寄に移る。
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なかにし礼の方へ

 一作ごとに新たな境地をひらきつつある作家なかにし礼さんが本紙で小説『てるてる坊主の照子さん』の連載を始める。なかにしさんの新聞小説執筆は今回が初めて。直木賞受賞後の実質的な第一作にあたる連載への抱負を聞いた。
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喜多由布子の方へ

 喜多由布子(本名・杉山真弓)は一九六〇年、渡島管内八雲町生まれ、室蘭育ち。同人誌の編集をしながら執筆を始め、九三年、第九回日大文芸賞、二〇〇四年、「帰っておいで」で、女性作家を育てるためにつくられていた「らいらっく文学賞」を受賞した。
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神谷忠孝の方へ

 北海道労働文化協会会長で、公益財団法人北海道文学館名誉理事長の神谷忠孝さんが二〇一六年度の北海道文化賞に輝いた。永年にわたる北海道文学の研究と運動体としての「北海道文学館」での活動が認められてのことである。
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