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北海道文学を中心にした文学についての研究や批評、コラム、資料及び各種雑録を掲載しています

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追悼雑記requiem

おりおりに、亡くなった知人や知識人について思いを綴ってきた。

谷川雁の方へ

 谷川雁が一九九五年二月二日、死んだ。
 七十一才だった。
 ここ数年闘病生活を続けており、死因は肺癌だった。
 もちろん、この稀有のアジテーターもすっかり過去の人となりはて、若い人を相手に文学めいた活動を続けていることや、故郷の西日本新聞に絶筆覚悟の幼年期の思い出を綴った文章を掲載していることは、遠くから聞こえてきてはいた。
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吉本隆明の方へ

 私は一九七〇年に大学に入った。今は学生運動というと、風変わりな人間のするものと思われがちだが、誤解を怖れずに言えば、その頃はまともで優秀な学生ほど、積極的で、マルクス・エンゲルス全集(の一冊)くらいは読んでいた。クラス単位の討論会も普通で、デモがあれば半数近くが参加した。
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いのうえひょうの方へ

 井上彪の《詩と小説と黎》

 井上彪はどこにいるか何を為したか? 問う者は百巻に及ぶ同人誌「黎」を見よ。須臾にしてその疑念を払拭せざるを得ないであろう。井上彪が病に斃れ編集に参加できなかった号があろうとも、「黎」百巻すべては井上彪その人の作品である。
 書き手を見よ。工藤正広。ロシア文学と津軽文学のガイストを体現した俊才がいる。沖藤典子。幾度かの仲違いがあったが、ノンフィクションに於ける新たな分野を開いた。鳥井綾子。彼女は昭和の農民文学の最後の場所を示した。そして熊谷政江こと藤堂志津子。彼女が失意の中を彷徨っていた時に、井上彪が最大の礼を尽くし才能の開花の機会を与えたことは北海道の文学関係者なら誰もが知っている。
 友を見よ。上沢孝二。大島宣博。萩本和之。躁鬱の奈落を見ながら、これほど無私の友情を尽くし得た者があれば語るがよい。
 女を見よ。文学とは無縁の我が愚妻ですら、井上彪の優しさを電話越しに汲み取っていた。「喧嘩ばかりしていたけれど」と女性同人達は懐かしむ。
 多くの離合集散があった。だが、歴史の大転換した世紀末、目的意識的な組織で腐敗もせず、分裂・解体しなかった組織があるなら誰か挙げるがよかろう。
 ことほど左様に井上彪とは時代を生き、文の技に心を砕き、人と人を結んだオルガナイザーであった。そして自己の現実を徹底的に凝視し、記録し続けた。
 本稿では井上彪の詩と小説について、自己史に引きつけて考察する。詩論は二十余年前の旧稿を再録する。そこに谷口が遭遇した井上彪への初発の思いが込められているからだ。小説については、新たに論じ直す。

 1:詩集「優しき懲罰」について
 井上氏の第一詩集「優しき懲罰」(一九八〇年)を読んだ最初の印象は、「これはまたなんと不幸な影を曵きずった詩集であろうか」ということであった。胸弾む第一詩集に贈る言葉としてはなんともふさわしくないが、率直な気持ちは否定できない。井上氏の詩は確かに平明で、一見わかりやすい。しかし、歌い切ってもなお詩の背後に言い足りぬ思い、激情を宿しており、それが成仏できぬ魂のように行間から顔をのぞかせているのである。

悔いすらも いまは遠い。/充たされぬまどろみ。/泣きくたびれたピエロ。//かつて/輝いて見えた日々が確かにあった。/眼を灼く陽光のもとに、/若やいだ隊列 があった。//麦色の肌。/夏草のしとね。//叫喚。/奔流。//それらはいつしれずフェードアウトし、/月日のなきがらだけが、/喪主もなしに 佇んでゐる。
//ああ/いまは悔いもなく、/眠るやうに老いてゆくだけ。
               (「遠い六月に」)

 二の章「穏やかな日々」に収められた一編である。しかし、この詩の《眠り込むような肉体と意識》のどこに安穏さがあるだろうか。詩人の内部は激情(叫喚。奔流)を鎮めようと意図しながら、遠い潮鳴りのように、あるいは地の底から吹き上げてくる熱波のように、精神の皮袋に張りついた《夢》を禁じることができないのである。
 七〇年代から八〇年へと至る史上例のない過渡期を思えば、政治的なものがそうであるように表現もまた深刻な危機を抱え込んでいる。私たちは現在、主体的な苦闘を抜きに如何なる未来を語ることを禁じられており、同じことだが、自分で問い・答えない限り前に進むことはできないのである。井上氏の詩の世界もそうした時代の壁から決して自由ではない。詩的完成度はそれなりの水準を誇っているが、この詩集は井上氏の精神の《過渡期》をも映し出しているように思われる。

 たとえば井上氏の文章に接したのはも十年近く前のことである。昭和四十六年三月一日付の北大新聞(673号)がそれで、その文章は《6・23すわり込み政治処分という難局ののち、道新反戦はひとつの模索の時期にはいった…》という書き出しで始まり、反自衛隊闘争、臨労結成、入管闘争と労働運動のアナロジーが展開され、《安保粉砕!日帝打倒!》のスローガン列記で終わっている。その時期におそらく「狂ひしは」のいくつかの詩が書かれていたのであろう。

倦怠は長靴をはいており、/嫉妬は魚を変身させる。//希望はインク壺に彷徨っており、/悲哀は北海でまどろんでゐる。//別離はカスバで喘ヘいでおり、/思想は幻滅の鼻先に死んでゐる。//ギターの恥部は濡れており、/ああ、ハープシコードは挫折を訴えてゐる。
             (「ファンタジア」)

 政治的文章の激越さと、この詩の哀調は一体どこで通底するのだろうか。政治的なものにのめり込みが激しい分だけ、詩的世界への没入の度合も激しいと言ってすましておれない。その両者は現在ではおそらく決定的に背反する両極である。井上氏の内部で展開された《葛藤》の熾烈さ、あるいは精神の時間を襲った奈落のような《断絶》を思うと戦慄が走る思いだ。
 突出する政治思想と行動・精神の暗部をよぎる飢餓感。これは北村透谷や石川啄木らの先達の例を持ち出すまでもなく、《時代》と《精神》を共振させた者たちが直面した最大のアポリアである。その難関では確かに《思想は幻滅の鼻先に死んでゐる》。これにどう答えるか。井上氏は政治的なものを詩的世界に止揚するという途を選んではいない。むしろ政治的なものは遠い夢のように彼岸化されているように思われる。よくも悪しも井上氏の政治経験の重さが、安易な詩的対自化を許さないのだろう。しかし、それでは問題が本当は何ひとつ解決されていないのである。井上氏はいまなお両極に引き裂かれている。あるいは《断念》によってかろうじて精神のバランスを保っている。だから、井上氏の《狂気》は明るくまた暗い。非在の橋を渡るように・・。

眉をひそめるくらい、/酩酊饒舌でありたい。/言葉の奔流に溺れてみたい。/あの、/驕慢な/イカルスのやうに。//(ひと気のない居間に、/つくねんと味わふ安ウヰスキー)//酢のような焦りがある。/飛び交う/言葉の電光に、/手が/届かないために。
                  (「夜に」)

 井上氏の作品四十二篇は抒情詩である。しかし、感性の赴くままに飛翔していくのではなく、どこかで醒めている。たとえば「悲しき朝焼け」「遠い六月に」などはほとばしるロマンチシズムへ流されそうな題材を扱いながら、立ちどまりあるいは抑制している。この垂力はどこから来ているのか。おそらくそれは自己愛惜と同じ位に、対象的世界への愛が重いためと言えるかもしれない。実際、井上氏の詩は一見、内閉しているように見えながら、徹底的に対象指向的である。標題にもそれはよく現れており、「あなたに」「還らぬものへ」「妻に」「優よ」「やすこに」などをはじめとして呼びかけ的なのである。そして、技法的には旧仮名遣い、カッコの多用が目立つ。旧仮名遣いについて氏は「衒らいである」と書いているが、私にはむしろ様式を借りての自己無化という古典性と、カッコの多用は詩的感性と散文的批評意識の綱引きと、感じられた。これらはいずれもロマンチシズムに対しては抑制的に機能している。
 井上氏の抒情は「倦怠の海」「のちの日に」に至るに従い透明度を増している。

いまははや冬来むに、/虫けらどもの鳴きいずる。/月も無き庭の辺に、/だりあ打たれて霜垂るる。
               (「冬の酒三題」)
絹雲あはき小春日に、/廃兵、夢はうつつなし。/かそかに悶ふ耳鳴りの、/木ぬれ伝ひに消えしかな。
               (「晩秋の庭」)
わたくしとおまへは/ロ短調ですね。パセティークのやうに。/どうしやうもない願ひばかりで、/じゅうねんが過ぎましたから。
               (「祈り」)

 こうした詩調の変化はやはり完成度と呼ばれるべきかもしれない。文語体、七五調の導入。そして「祈り」の抒情は立原道造のソナチネの世界に似ている。そこではやさしさと愛と、時間(それは止まったり、静かに流れたりしている)とが、甘美につるみ合っている。
 だが、本当はこうした完結性こそ表現にとっては最大の危機ではないのか。井上氏もその点に十分自覚的であったが故に、一方で、創作(小説)の世界へ転戦を開始したのではあるまいか。これまで述べてきた井上氏の対象指向、散文的批評意識から見ても、創作の世界はある意味では指呼の間にあったとさえ言えるかもしれない。詩的世界で断念した政治の対象化(それは体験の思想化と呼び換えてもてもいい)は創作の世界で次第に引き寄せられつつある。情況とそして時代と共に生きた井上氏の《過渡性》は今、次第に開かれようとしている。しかし、その点については本稿とはまた別の課題である。
   (「黎」18号・1981年初出の拙稿より)


 2:「雪くる前」と「ちりぬるを」を貫くもの
 私が文学上の師としているのは伊藤整と吉本隆明の二人である。この二人に遭遇しなければ、文学作品を論じるなどというこちたき所業に手を染めることなどなかったであろう。市民社会へ復員する過程で伊藤整のたどった道を追体験しなければ、人間的には単なるならず者で終わっていただろう。
 井上彪の文学は私小説である。もちろん私小説誕生の歴史的環境は変わっているから、本当はそのことはきちんと考察しなければならないのだが、「私小説は、はじめは社会からの逃亡体験記としてはじまったが、後には、人間生活の探求という形において純粋なものになった。同時にそれは、社会への反抗ではなく、死と破滅に向かっての落下ということになった」(「文学入門」)という伊藤整の私小説論の範疇の中に井上彪の文学はあると思う。そして伊藤整は、モチーフとテーマの反復に作品の感動の本質があるとしたうえで、作家においても「その人の存在の根本のモチーフ」は続くとも述べている。
 井上彪の第一創作集「雪くる前」(一九八二年)のあとがきでは、次のような言葉が記されている。
 「師とする人を持たず、作品は、大部が自己流の“私小説ふう”であって、これまでも、現在のところも支持者は少ない。明晰さも感覚の鋭敏さも欠いているので、これからも、ひとつのメロディーをうたいつづけるしかないのだろう。ただ、最近高名の新人、女流の評判作にはちっとも感心も出来ず、模索を続けるうちには、あるいは自分なりの方法のうえで人生の真実のひとつの側面を造形出来るのではなかろうかと、儚い夢を見ている」
 今回改めて同書を読み直して、予言者のような井上彪の自己省察力に驚かされた。彼は出発点において、社会風潮から己の文学の孤立独立性をがっちりと受け止め、その上で己のメロディー(テーマ・モチーフ)に従って模索を続けると宣言しているのである。私小説家そのものではないか。思うに井上彪はそのとおり生きた。
 井上彪の文学的な本質は作品集「雪くる前」にすべて現れている。基本にあるのは原風景たる十勝の農村青年の日常と葛藤と夢であり、そして七〇年闘争者としての運動圏の引力との確執であり、それらを貫くエロス的存在への自己解放と女性への憧憬であると思う。この三本の軸は変奏と成熟を重ねながら揺らぐことはなかった。
 「雪くる前」から十一年後の一九九三年に第二創作集「ちりぬるを」が出されている。表題作となっている「雪くる前」と「ちりぬるを」は実は同じ内容を扱った小説である。井上彪は、同じテーマの作品を書き続けているのである。薄幸の人妻との「純愛」を貫く男の、ある意味で潔く、同時にだらしのない生き様|。作品に違いがあるとすれば、困難を予感しながらも、肝炎を患う女性を支えて生きていく決意を描いているのが「雪くる前」ならば、病が悪化した女性がついに帰らぬ人となるまでを描いたのが「ちりぬるを」なのである。
 「ちりぬるを」の中に「きさらぎのゆめ」という小品がある。そこでは女性が男に「わたし、少し長い旅に出る」と言う。男は女性が道南を旅行していると信じているのだが、女性の娘から彼女が病院に入っているのを初めて知らされる。つまり、男は女性を大切にし、信じているが、女性との間に感覚の擦れ違いがある。そのことが象徴的に描かれている。
 これは私小説家特有の自己劇化なのか、真実なのかはわからない。どちらにしろ、井上彪の作品のほとんどは、女性を愛おしく思いながらも、それが満たされぬ姿が執拗に描かれているのである。
 井上文学の三つの柱として女性への憧憬に加えて、十勝への郷土愛と七〇年闘争との確執を挙げたが、残る二つもやはり満たされてはいない。七〇年闘争には脱落の原罪感が必ずつきまとい、敗北の現実がさらに重くのしかかる。十勝を愛しながら、彼は農村崩壊と故郷を捨てる者たちの姿を描かずにはいなかった。
 言いたいことは、文学者・井上彪は、理想を追って戦いながら、常に満たされず裏切られ敗れていく現実の自己を、徹底的に凝視続けていたということだ。
 「黎」百号記念アンソロジー「黎明U」(二〇〇二年)に、井上彪は「喪声」という作品を寄せている。十勝池田生まれの迫上燎一郎五十九歳と、広尾の素封家の三男本田慶伍という幼なじみ二人が主人公で、筆談で十勝と女たちに囲まれた来し方を振り返るという趣向である。そこで井上彪が描いているのは逃亡も革命も自滅もしなかった私小説家の静かな老後である。この私小説家は、文中で井上文学の集大成「俺の幻日」についてすら「厄体もない創作集」と戯画化して見せており、井上彪の注いだ情熱を知る者としては涙なしには読めない。
 井上彪を通じて思い出すのは北村透谷である。彼は文学の功利主義者の跳梁に対して、戦いは勝利のためではなく戦うべきものがあるが故に戦うのだと語った。そして、虚を撃ち「空の空なる事業」をなして、戦いの途上にて何れかに去るもまた本望(常)と述べた。井上彪もまた、そのように激しく生きた人であった。

(文芸同人誌「詩と創作 黎」第102号=井上彪追悼号、2003年12月収載)

「北嶺村興亡史」へ

高橋かふみの方へ

「みみとう」逝きて― 高橋かふみ小論 ―

 高橋かふみさんの作品について考える時、僕は決まって、不思議な虫の「みみとう」のことを思い浮かべる。
 「みみとう」は名も知れぬ北国の海岸に何げなく咲いている浜昼顔の花の中に棲む小さな黒い虫である。声をかけると元気な声であらわれて、ペコリとおじぎをするという。誰もその姿を知らないのに。いたいけで、あえかな夢物語。母から聞いたという小さなメルヘンをかふみさんは繰り返し書いている。僕らには見えない小さな虫がかふみさんには見えていた。「大切なものは目にみえないんだ」(WHAT IS ESSENTIAL IS INVISIBLE TO EYE)とは『星の王子様』の有名な一節だが、かふみさんには僕らには見えない大切なものが、たぶん見えていたのだろうと思う。

 みみとう、みみとう、(注・8文字に傍点)花粉を散らしたみたいな虫が、薄い蝋細工のような花弁を駆け巡る。
 浜昼顔……花に顔を近付けてね、大きな声で、みみとう! みみとう! って呼ぶんだよ。そうすると、みみとうが顔を出して、お嬢さん、何か用かねって……。
 浜昼顔。それは母の疲れた影を長く引いた夕暮れの記憶。
 この花? と手に載せた感触。
 この花は、夕方になると萎むの。点ほどの虫がこの花に隠れ潜んでいるのよ。
 幼い頃の母の遊びだったという。           (『堤防になった町』)

 絶筆となった「黎」64号(1992年10月25日発行)でも、かふみさんは書いている。

 おちょうばあさんは、子(こ)どものころにもどったようなやさしいきもちになって、みみとうをよんでみました。
「みみとう」
「ハァイ、みみとうです。」かわいらしい声(こえ)がきこえました。チョコチョコ出(で)てきて、まぶしそうにみあげると、ペコリとおじぎをしました。
「きょうは、ひさしぶりにへんじができてとてもうれしいです。」
「みみとうはいいへんじをするんだね。」
「ええ、へんじをすると、よんだ人(ひと)がいい顔(かお)をして笑(わら)ってくれます。ぼくも体(からだ)がポッとあったかくなるんです。」       (『みみとう』)

 一九九三年九月二十五日、『黎』文学会の中心的メンバーであった高橋かふみさんが亡くなった。本名・練合保子さん。享年四十八歳。ここ三年ほど肝臓の病気が悪化して入退院を繰り返していたそうで、楽しみにしていた娘さんの晴れの日を待たず帰らぬ人となった。
 思えば高橋かふみさんが、まだ高橋佳文のペンネームで「黎」20号(1981年7月25日発行)に書いた最初の作品『再起へ』に於いて自らの体調について触れていたのであった。

 数カ月前に医師に宣告された慢性肝炎という病気がわたしに予定外の余暇を与えてくれることになった。
「すぐに仕事を中止して絶対安静にしていなさい」という医師の切迫した忠告にしたがって、わたしは入院生活に入ることになったのである。              (『再起へ』)

 作品では「昨年十月に入院し、二ケ月の安静を解かれて十二月末に退院」となっており、つまりは一九八〇年頃から、すでに肝臓を病んでいたわけで、闘病は十三年にも及んでいたことになる。
 世間にはもっと持病で苦しんでいる人がいるはずなのだから、かふみさんだけがよく闘ったというべきなのかどうかはよく分からない。
 ただ、僕はかふみさんの病気を悪化させたものが僕たちが抱えてしまった「内ゲバ」という新左翼運動の後退戦を襲った悲劇であったことだけは言っておかなければならないと思う。もし内ゲバ状況がなければ、かふみさんも心労が少なくて済んだはずだからである。このことは秘匿されるべきではなく、結果論でもなく、全共闘世代が明確に責任を取らなければならないものに属する。
 彼女の死はそれ故にまた、プチ・インテリゲンチャの運動が、世界的に過激化し後退していった六〇―七〇年代の《共同幻想》の負性を抱えての無念の「戦死」でもあったと、僕は痛切に思うのだ。
 質素な葬儀に参列しながら、僕が思い浮かべていたのは、やはり浜昼顔の中に棲むというあの「みみとう」のことだった。僕たちにはついに見ることが出来なかった「みみとう」が、とうとう逝ってしまった、という、なんとも不思議な気持ちであった。あるいは、かふみさんは、川を渡った世界で今なお『みみとう』と一緒に、あの優しかった笑顔で僕たちに微笑んでいるのだろうか、とも考えていたのであった。

  みみとう逝きて こうべ垂れるや 浜昼顔

         《1》
 デビュー作にはすべてが凝縮している――とは本当だろうか。僕は本当だと思う。僕は『再起へ』を読み直しながら、かふみさんを襲っただろう闇の深さと、あの「みみとう」に寄せた愛のような意志の輝きを見た。
 『再起へ』は次のように始まる。
「三越前から市電に乗ると、電車はすぐ動きはじめた。ガタンと車体が揺れると、身代が大きく揺れ、嬉しくて心も揺れる」。
 主人公の「私」は電車で、弟を迎えにいくところである。肝臓の病気で退院したばかりなのに、私が行こうとしているのはやはり病院である。弟は薬物中毒で精神を病んでいる。東京の大学に行き結婚し、会社勤めをしたものの、生活は破綻、札幌に戻って立ち直るかに見えたが、閉塞状態に陥り精神科の病院に入院している。その弟を迎えに行く主人公の私は新左翼運動にのめりこんでしまった夫を持ち、別居生活を強いられている。対立セクトからのいやがらせ、世間からの「過激派」という非難の中で、老いて寝たきり状態の父親、腰痛で体がきかない母親を抱えている。そうした中で、外泊の許可が出た弟との再会の日なのである。
 なんともやりきれない状況にもかかわらず、実は主人公はへこたれていない。もう一度、書き出しの部分を読んで欲しい。「嬉しくて心も揺れている」のである。なぜか。主人公の私は吹雪の中で確信して見せる。

 私の心の持ち方で幾様にも人が変わってゆく。絶望的に人を見てはいけない、弟もきっと再起出来る、何年かかっても……。

 つまり、私は人生を、弟を、さらには夫を、見捨てていないのである。どんなどんづまりであろうと、共に前向きであろうとしている。「私は傍目では不幸なのかも知れないけど苦労があるからといって別な平凡な生き方を選ぼうと思わない。その相手を信じていたなら、貫ぬこうと思う」。そうした決意の根底にある明るさがどこからくるのか。本当はこの作品だけではよくわからない。だが、大地をしっかり踏みしめた〈女性〉がまぎれもなく、そこにいるのである。
 絶望的な状況の中を希望を失わずに生きること。
 かふみさんの作品のメインテーマはそのようなものであったと、僕には思われる。そしてその心の片隅ではいつもあの「みみとう」が元気な声で飛んでいたのだろうと思うのだ。
 『再起へ』を「黎」20号に発表してから、かふみさんは堰を切ったように次々と作品を発表している。
 続く21号には『花びえのころ』、22号に『晩秋の訪問者』、23号に『マント』、24号『昼寝のユダ』、26号『目路のかぎりに』、27号『葉見ず花見ず』、29号『堤防になった町』と、八一年から八三年の三年間は創作に没頭していた印象である。
 当時の「黎」を見ていると、後に藤堂志津子となる熊谷政江の力作も並んでいて、早くから独特の世界を作っていた鳥井綾子、沖典央(沖藤典子)を含め、既に女流の時代が到来していたことに驚かされる。男流では、いのうえひょうを除けば、手前味噌そのものだが、若き谷口孝男=有土健介が懸命にある磁場を抜け出そうと、血筆を振るっているのに感動を覚えた。読書日記でごまかしている昨今とはまさに天と地の違いである。閑話休題。
 その後かふみさんは32号に『西明かりの戦友』を発表したが、筆は途絶える。一九八六年十月の41号の『虹の襤褸』が創作としては最後で、先に紹介した一九九二年十月の64号の童話『みみとう』が絶筆になる。
 かふみさんの作品をその傾向で分けると、三つに大別できると思う。一つは家族・夫を軸にした作品群、二つは友人・旧友・古里を扱ったもの、三つは恋や愛、青春の甘い思い出を綴ったものである。もちろん、必ずしもそのどれかに分けられるわけではなく、逆にそのいずれもが混ざり合った作品の方が多い。ただ、そう分けることが彼女の全体性が見えてくる補助線になり得るように思われる。
 第一の傾向は『再起へ』を代表作に挙げることが出来るだろうし、第2の傾向は『堤防になった町』であろうし、第三のロマンティシズムの傾向には『マント』を挙げられるだろうと思う。たぶん、作品としての全体の頂点にあるのはやはり『堤防になった町』であり、これについては、章を改めて論じたいと思う。

        《2》
 駆け足になるが以下、まず簡単ではあるが、残る作品について書き留めておきたい。
 かふみさんは、「黎」入会当時、美容院を営まれていたと思う。『再起へ』の中でも「女の私が生活を支えて行くためにと、不本意ながらも志した美容師の仕事が数年間の苦労のすえ、ようやく一応の軌道に乗り始めた矢先に」病気になったことが書かれている。
 第二作の『花びえのころ』は、そうした美容師の世界を題材に取っており、華やかさも顔をのぞかせて、かふみさんにはちょっと変わった作品になっている。「S市の美容界のスター的存在」である淳を主人公に、美容界での育ての親であり他人からは愛人と思われている倉田がトラブルに巻き込まれ失踪、反倉田派のいやがらせを受ける中、淳がコンテストを通じて真の技術者として自覚を得るまでの姿が描かれている。表面上の華やかさに惑わされず、伊藤整の本質転移論を援用すれば、実はこの主人公・淳を中心とした構図は『再起へ』での私が四面楚歌の中で絶望的にならず再起を誓う姿と基本的には同じである。
 続く『晩秋の訪問者』は、新左翼の政治活動家を夫に持った栄子と、妹の秀子の家に刑事が訪ねてきて、夫が逮捕されるまでの顛末が描かれている。公安警察の執念深さは体験に基づいているせいかリアリティがあるがなんともやりきれない。唯一、妹の秀子の気丈な姿が印象的である。特別に政治に加担しているわけではないのに人間として筋を通し、そしてやさしさを忘れない一人の大衆像となっている。僕たちの時代の新左翼はみんな粋がって世界革命を叫び民衆の解放を訴えていたが、本当は秀子のような無数の民衆の深いやさしさに支えられていたのである。家族の日常から見た政治(反政治)運動への貴重な資料といえるかもしれない。
 『昼寝のユダ』は政治活動家の夫・慎吉の側からの生きる論理を描いたもの。離れて住む妻・光子への思いを軸にして祖国から強制連行され多くの辛酸をなめながらようやくホルモン店に落ちついた朝鮮人の主人、全共闘運動のリーダーでありながらも仲間を売り季節はずれの吉本隆明を持ち出して言語研究会などをやっている元ライバルの小池、毛沢東の死を悼んでいる老朝鮮人の店で差別的言葉を吐く労働者のためを標傍する選挙党議員らが登場する。「昼寝のユダ」とはいうまでもなく、非公然活動を強いられている主人公の慎吉の側から「裏切り者」の小池を指していることはいうまでもない。それと同時に平穏な生活を夢見ていた妻の期待を裏切ってしまっている慎吉自身をも重ね合わされていることは明らかであろう。あるときは「おのれ独りになっても、自分を信じなさい。やりぬくのよ」と励ましてくれたかと思えば「もう駄目かもしれない、こんな生活。いや」と弱気にもなる妻へどうすることもできぬ慎吉の煩悶。深くため息をつきながら慎吉は妻への手紙を書く。

 『卑屈な幸福』より『堂々たる不幸』を誇れる女性になって欲しい……と。
 これは彼女に対して虫のいい傲慢な願いだろうか。ペンを止めて慎吉は考えた。
 闇夜のガラス窓から般若がじっと慎吉を見ているようで、一瞬ぶるっと身震いした。

 「ガラス窓の般若」とは妻の光子の比喩であることはいうまでもない。はたして慎吉の勝手な言い分が妻に通じるかどうかは疑問であり、そうした余韻を残したまま、この作品は終わっている。
 『マント』ではロマンチストのかふみさんの面目が躍如としている。書店に勤める久芽子の女こころ。美男青年、大学生、社長。そんな男たちを活写しつつ、マントを着たなぞの男との奇妙な出会いと恋の予感がときめいている。

 「君は、マントを持っているだろう?」
 久芽子の前を歩きながら、突然、社長が云った。
 《この人も、マントを探し求めている》
 咳き込みながら顔を上げると、紺の背広が揺れている。
    
 《マント》が《夢》の寓意ととるのは、いささか俗流すぎるか。それでも本当はロックやジャズ、フォーク、クラシックなどの音楽が好きという、かふみさんのもうひとつの顔を思い浮かべられるのは楽しい。
 『マント』と同系統の作品としては『葉見ず花見ず』を挙げられるかもしれない。この小説は自殺した昔の恋人に寄せた独白というか私信のようなスタイルを取っている。余韻残る作品で悲しみがあぶりだしのように浮かんでくるのだが、とてもロマンティックである。

 覚えていますか、悲しみのジェット・プレーン。貴方が、時にはこんなものを聴くんだと言って私に紹介してくれたジョン・デンバーの曲です。    (冒頭の部分)

 それではまたの日に。
          *月*日 朝から曇り
          虫歯が大分痛くなりました。    (結末の部分)

 『目路のかぎりに』は古里・夕張を幼なじみの好子と明広が訪ねていく。変わり果てた町を見ながら改めて二人が生きることの方向を確認する。この作品での好子と夫との関係は夫に愛人がおり、好子が家を出たことになっており、まともな夫婦生活が営まれていないのはいつもの通りである。夫との関係を清算も回復もできない好子と、大学に入れてくれた叔父を見限り政治活動に走ったものの何事も全うできずぐらついた生活を続けている明広の2人。明広に連れられて、崩れゆく町を見ることで、2人は崩れぬ生きることの原点を改めて思う。2人の、変わらぬ《親愛》の思いがしみじみと伝わってくる作品だ。言葉少なな2人の決意は次のような思いを背後に秘めていて、印象的である。

 《われの無言をとがむなかれ。我には何時にても起つことを得る準備あり》ふといつの日だったか、啄木だよと明広が口ずさんだ詩が思い浮かんだ。

 ここでもかふみさん流の決意性が色濃く出ていることは明らかだ。
 古里を訪ねるという物語としては『虹の襤褸』も同様である。こちらは、主人公・朝子が幼なじみの夏子を訪ねて行くが夏子は精神の病にあるのか感情を失い失語の状態にある。夏子のそうした状態は中学三年生の時起きた父親の死亡事故の頃からという。朝子は夏子の病気に驚くが、ある時、部屋の奥に線香の臭いのする木彫の人形の雛壇を発見する。それをきっかけに夏子の心は開かれ、夏子から朝子に長い手紙が届く。父親の死亡事故は誰にも言わなかったが、夏子のふとした弾みの振る舞いが関係していた。事故とされたものの、夏子の心の中には父を殺したという罪の意識があった。精神を病み始めた夏子は二十歳の時、幸せの白蛇を探しに山に入り遭難する。それを助けてくれたのは、夏子が唯一心を許し夏子と父親の事故を知っていながら他言もせず見守ってくれたいた「長崎じいさん」という粗末な身なりの老人だった。だが、夏子を助けたことで長崎じいさんの身元が分かってしまう。彼はシベリア抑留の後、長崎に戻ってきたものの、故郷は荒れ妻は原爆のため病に苦しんでいる中で、妻の苦しさを見るに忍びないと絞め殺し自分も自殺をはかったものの死にきれず、北海道に逃げてきた過去を持つ人物であることが明らかになる。長崎じいさんは逮捕される前に「妻のために彫った」という木彫の人形を夏子に残していったのだった。夏子は木彫の人形に、自分の苦しみと感情のすべてを封じ込めていたのだった。
 虹の襤褸とは夏子を助けた長崎老人の後ろに夕立の後の虹がかかり、雑巾のような老人の襤褸服が観音様の衣のように見えたことからきているが、イメージは新鮮だ。
 『西明かりの戦友』は、家族ものの一典型とでもいうべきか。病に倒れた老いた父親を巡る友人達と面倒に追われる主人公と、さらに『再起へ』でも登場した薬物中毒に苦しんでいた弟が立ち直った姿が描かれている。

       《3》
 かふみさんの作品を振り返ってみたが、やはりもっともすべての要素が凝縮しているのは『堤防になった町』であると思う。そこで、かふみさんは、巨大な力の前に崩壊する共同社会と関係、それでもなお変わらぬ人間の心と生きることの意味を描き出している。
 夕張に生まれたというかふみさんは、家庭の事情で少女期を石狩町で過ごしていた、と聞いている。その石狩町は古くから石狩川の河口の町として開拓されたところであった。しかし、海と川に面した町は砂地の上、泥炭地でもあったから農業条件には恵まれず、たびたび石狩川の水害にも苦しんだ町でもあった。河川改修により100戸余りの民家が堤防になったしまったともいう。
 物語は主人公・悦子が誘われて数年ぶりに石狩を訪れたところから始まる。クラス仲間の中心だった成一は糖尿病が悪化し失明しており、その励ます会に呼ばれたのである。クラス仲間が集まると昔話に花が咲くのが常である。だが、まず変わりゆく町についての感慨が口を突いてでるのであった。

「町も変わったでしょう? 私の家も、もうないのよ。それでも1年に何回か来るの。自分の生まれた所がいいものね。あっ悦ちゃんは途中から来たっけね」
 千恵は言いながらビール瓶に手を掛ける。悦子がそれを引き受けて千恵のコップに、ぼこぼこ勢いよく流す。
「一つの歴史が終わったって感じかしら。さっきバスで降りたでしょう、びっくりだったわ。いったいここはどこかしら
って、町の半分がなくなっているんですものね。考えられない」
「堤防になったってわけよ。私のうちも消えたあ。巨きな力の下敷きになってしまった」
 古井のマスちゃんが身を乗り出して言う。私の主人の職だってそのために取り上げられたのよっ、と酔がほどほどになったらしく、頬を染めて力なく呟く。
 明治以来からの渡船。その渡し守であったマスちゃんの御主人。

 もちろん、町の崩壊を残念がる者ばかりがそこにいるわけではない。地元の開発計画に関係しているという根上隆一は「文化的遺産がないんだよ。この町はどうにでも変えられるのさ。発展の阻害なんて馬鹿なこと考えないほうが利口だったのさ」と言う。巨大な開発がそうであるように、それは必ずその地に生き暮らして来た者たちに無用の対立を持ち込みひいては共同体の解体を加速する。開発派の根上すら本当はそうした事態を歓迎していないことが悲劇の重さを物語る。

 「人間って弱いよなあ、弱いとっからがたがたとなるね。あれ、あそこの戸田のじっちゃんなんか独り暮らしだべ、さっさと札幌の娘さんのとこへ行ったべさ」

 夫の関係する三里塚闘争をふと思い出す悦子はかふみさんそのものだ。
 堤防の話が途切れたところで、やはりクラス仲間の中心だった一郎から、まるで覚悟を決めての自殺のように『真屋の坊が死んだよ』ということを告げられる。坊は町でも大規模に栄えた網元の息子だったが、家は破産し落ちぶれてしまった。人々は坊を憐れみ倉を改造して住家に当て、農作業の手伝いなどをさせていた。悦子には真屋の坊という知恵遅れの青年に忘れ難い思い出があった。道ばたの浜昼顔をながめて「みみとう」を呼んで遊んで帰る道で、悦子は坊から瓢箪梨をもらったのである。それ以来、悦子は坊の馬車に乗せてもらったり、自宅になっている倉で、坊の書いている水彩画を見せてもらったりした。ある時、坊の絵をまねた燈台と浜なすの絵が銀賞をもらうということがあった。
 悦子は倉でその絵を見せ、坊に言う。

「本当は、浜なすじゃなく、浜昼顔を描きたかったの。浜昼顔には、みみとうっていう小さな虫がいてね、呼んだら出て来るのよ。母さんがおしえてくれたの。だから浜昼顔と燈台を描きたかった」
「浜ひるがお」(注・5文字傍点)
 坊は、一言一言区切って言う。
「そうよ! でも浜なすは描きやすいけど、浜昼顔は描けないの、残念だなあ―」
 坊は二、三歩後ずさって、ふうんと腕組む。
 昼間でも暗い坊の倉。
 坊はりんご箱に腰をおろして絵を眺める。
「なんまら、いいあんばいだ」
 坊の最高のお世辞だった。

 成一と再会する悦子。かつては悦子に対して、夫のことで「家庭も守れない奴なんか、別れた方がいい」と猛然と挑みかかってきた成一は、今は目も見えなくなり「何んとか、生きていたら、いいことあるよね」と静かに言う。町が変わったように人間も変わっていくのだ。
 その成一の「坊はこの町そのものだったね」という一言を聞き、悦子は町とともに消えた坊が町そのものだったことを改めて知る。成一は坊の倉にたった一枚不思議な絵がガラス窓に張り付けて残されていたことを教えてくれる。

 「燈台の絵なんだけど、赤い縞の燈台。僕達が坊の倉に入ったのは夕方で、中は暗くて、その窓から射している陽が、ぼうと明るくて、美しかったなあ。幻を見てるような感じだった。燈台が画面に二つもあるんだ、右と左端に、下の方に浜なすと、よく見ても名前が判らない花があって」
 「燈台が二つも?」
 「うーん、三人とも、僕の他に役場の人が二人いたんだけど、しばらく眺めてたよ。窓から剥がして床に置くと、燈台なんか一つしかない子供の有りふれた絵で、三人ともぎくりとなってね。坊の死んだ日だったから。よく観ると、何んてことはない、裏面に同じ燈台の絵があって、上手な水彩画になってる。さっと描いた感じで、あっそうそう昼顔とかいってたなあ別の二人が、その花と燈台が、淋しそうで・・きっと表にあった浜なすと燈台は、子供の頃の絵で、裏面は大人になってからの絵だよ。ガラスに晒す美しくなるってわけ」
 その絵を柩の中に持たせてやった、と成一はサングラスの奥で瞳を閉じる。
 ガラスに映った裏面の燈台と浜昼顔、夕暮れの淡い光線に浮き上がった坊の絵。真屋の坊は、やっぱり天才だ。メルヘン天才、と悦子は思った。
 「その絵、坊の自慢の絵だったんだよ、きっと。絵の下に銀紙が張ってあったから」

 言うまでもなく、悦子が銀賞をもらった絵のその裏に、坊は悦子の書きたかった燈台と浜昼顔の絵を書き、大事にとっていたのである。悦子の脳裏に透かし絵のような坊と悦子の絵、そして崩壊していく共同体が二重写しになるところで、物語は終わっている。
 この作品をかふみさんの世界が凝縮されたものであることは明らかであろう。人間と自然とそれら総体に対する関係についてのかふみさんの姿勢が明確に示されている。関係が崩壊していく中で、変わらぬものの存在を浮かび上がらせること。そこにかふみさんの世界の真骨頂があった。あるいは傷を負い疎外されていくもの達のなかに存在するやさしさ。たぶん、そうしたものを信じられたからこそ、いかなる逆境にあっても、かふみさんは「絶望的に人間を見てはならない」と強く生きられたのだろうと、思う。

        《4》
 二つの古里は崩壊し、家族はまたみな爆弾をかかえたような危ない生を生きている。そうした満身創痍の中でかふみさんは、真の民衆の強さを信じていた。

 そうだった。坊は町そのものだったのだ。無欲で、自然を愛した働き者。季節によって、田植え、動物の世話、漁場と、様々な箇所に坊が汚れた作業着に包まれて働いていた。陽が昇ると起き、暮れると家路につく。なんと自然に生きていただろうか。
             (『堤防になった町』)

 かふみさんが『昼寝のユダ』で嫌みを言わざるを得なかった吉本主義者の末席である僕は、かふみさんの作品に吉本さんの言葉を使うのは気が引けるが、真屋の坊にかふみさんは《大衆の原像》を見ていたのだと思う。しかし、それを見るかふみさんは、そうした《原像》を心の中に確固と持ちながらも、修羅の世界を生き続けねばならなかった。
 『黎』という方舟がかふみさんのなんらかの力になり得たかどうか、僕にはよく分からない。今はそうであったと信じたいだけである。
 かふみさんが元気な頃、一度だけ、『黎』の同人で、新篠津村中篠津で、住職をされていた泉良麿さんのお寺を訪ね、合宿をしたことがある。何を話したかはもう忘れてしまったが、残されている写真の中で、かふみさんは白いイヤリングと白いジャケットが目だつ姿で写っている。そういえば、透き通るような白い感じの人だったなあ、と僕は写真を見ながら黙してしまったのであった。
       (文芸同人誌「詩と創作 黎」第64号=1994年冬号に収載))

追悼雑記 2

清水博子さん さよならも言えなくて
 旭川出身の作家、清水博子さんが十月に死去された。謹んでご冥福をお祈りするとともに、さらなる活躍が期待されていただけに、その死が惜しまれてならない。・・・・
 ほかに「約束と信義―直木賞作家 北原亞以子さんを悼む「中村勘三郎さんとの遭遇」「将棋を愛した作家、団鬼六さん死去」「『破天荒伝』荒岱介さん死去」「野村義一さんの死」「島成郎さんお別れ会」
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