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北海道文学を中心にした文学についての研究や批評、コラム、資料及び各種雑録を掲載しています

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本を読んでBOOK-REVIEW

  何を読んだか   2023-2024

某月某日 
河﨑秋子『ともぐい』(新潮社、2023年11月)
 第170回(2023年下半期)
直木三十五賞受賞作
 「東陬遺事」で北海道東部の僻陬の地に生まれついたものがかかえる業の深さと自然の苛烈さを描き出した河﨑秋子ワールド全開の衝撃作である。なにが衝撃かというと、いのち=生きることと死ぬこと=を「ともぐい」というイメージの中に描き出しているからである。それはある意味で野蛮であり、またある意味では聖なる儀式のようでもある。河﨑秋子さんの死生観は宗教的幻想と紙一重でありながら、根源の方へ遠くまで行こうとしているようにも思える。
 あらすじはこうだ。明治の終わり、日露戦争を前にしたざわつきが聞こえ始めた北海道東部・白糠のマチの奥に、世事とは無縁に生きている「野人」の熊撃ち・熊爪が暮らしていた。熊爪にとっては「生き物とは山と森に生きるものが全てだ」った。
 彼が人間界との窓口にしているのはマチのはずれ近くにある「かどやのみせ」店主の井之上良輔。良輔は白糠の町一番の金持ちだったが、熊爪の話を面白いと聞いてくれる人物だった。ふじ乃という妻がいるが、熊爪は苦手だった。良輔のところにはもう一人、「白い女」がいた。熊爪を見ると「血の臭いがする」と言う。ふじ乃が陽子(はるこ)と呼ぶのを聞いた。
 熊爪の暮らしが狂い始めたのは阿寒湖のほとりの集落から「穴持たず」の熊を追って大怪我をしている太一という男を助けてからだった。手負いとなり人間を襲う危険のある「穴持たず」の熊と対決するために熊爪は村田銃を手に狩猟犬と山中へ入っていく あまり詳しく紹介すると読む楽しみを奪うので、熊爪と「穴持たず」の対決の行方が運命を変えてゆくことになる、とだけに止め、彼の残した対照的な二つの言葉を記しておこう。「人にも熊にもなれんかった、ただの、なんでもねえ、はんぱもんになった」「俺は、生き果たしたのだ。そして、殺されて初めてちゃんと死ねる」
 本作のタイトルは『ともぐい』であるが、漢字に直せば「共」「喰い」である。共とは個ではなくペアである。ペアは対立しているとともに共鳴している。物語は強烈な個性の持ち主である熊爪が主人公であるが、常にペアとなって話は展開していく。熊爪と「穴持たず」、熊爪と良輔、良輔とふじ乃、ふじ乃と陽子、熊爪と陽子、熊爪と養父、陽子と母、「穴持たず」と赤毛、熊爪と赤毛、獣と人、自然と人間……。

太極図 wikipediaより

 私が思い浮かべたのは古代中国に由来を持つ陰陽、太極のイメージである。陰と陽は対立しつつも一体なのである。そして、弁証法的に言えば、陰は陽に、陽は陰に相互浸透していく。それを「喰らう」と河﨑秋子は捉え返したと言えるだろう。
 世界は対立しつつ、混淆し、死を迎えるとともに再生していく。主人公は熊爪と書いてきたが、最終的には「白い女」陽子の流浪と忘れられることが語られる。陽子の子供たちは私たちのそばにいるかもしれない。ぜんぜん的外れなことを言うようだが、青春小説や「新世紀エヴァンゲリオン」のように、自己防御の壁(ATフィールド)を超えて、人はいかに生くべきかを問うているように思えた。

 
河﨑秋子 読書・研究ノートへ
 
 

某月某日 
池上彰、佐藤優著『真説 日本左翼史 戦後左派の源流 1945-1960』(講談社現代新書、2021年6月)/池上彰、佐藤優著『激動 日本左翼史 学生運動と過激派 1960-1972』(講談社現代新書、2021年12月)/池上彰、佐藤優著『漂流 日本左翼史 理想なき左派の混迷 1972-2022』(講談社現代新書、2022年7月)=いずれもkindle版


 ネットを見ていて、気になったので、読んでみた。当初は第2巻(1960-1972)のみにしようと思ったが、中途半端なので結局、3巻全部を一気読みしてしまった。もっとも、1冊200ページ程度で、しかも池上彰と佐藤優の対談スタイルなので、それほど重くはない。
 本人たちの自負するところによると、この左翼史本はこれまで共産党を軸に語られていた運動を、講座派マルクス主義-労農派マルクス主義、共産党-社会党という2極をルーツにして、労農派-社会党の孵卵器から主な新左翼運動も登場してきた-というように社会党主軸観で分析しているのが特徴だ。
 明瞭なのは、2人というよりは佐藤優が共産党を全面否定することに注力していることだ。共産党を否定するがゆえに、それとは相対的に独立している大衆運動などにも冷淡である。私のように共産党を全く支持していない者も驚くほどで、ある意味、佐藤優は極めて党派的であることを隠さない。主体性哲学者であるが革マル派議長でもあった黒田寛一と、その片腕であった動労の松崎明をほぼほぼ絶賛しており、批判するときは彼らの運動の末端で起きた限定的現象に対してである(樋田毅『彼は早稲田で死んだ 大学構内リンチ殺人事件の永遠』を精読すれば、佐藤優の絶賛する人々の非道ぶりは彼らに左翼を自称するなど許されるはずがなく、永遠の今だろうが千年王国だろうが、人間の解放の担い手などになれるはずがないことは誰にでもわかる)。クロカンと人間革命を結ぶあたりも、対岸に共産党という鏡を置けば謎が解けるというものだ。
 国鉄の分割民営化で松崎派が反共政治・労働団体と親和したのは誰もが知っていることだが、恥ずかしげにそこを語る一方で国労とその組合の労働者もひどかったなどと言い出すのは、今もある「公務員は働かないで、高い給料をもらっている」といたずらに分断を持ち込む新自由主義の俗流政治家批評家と似ている。
 佐藤優は社青同活動家(向坂協会?)であったというが、大衆運動のダイナミズムを体感していないせいか、新左翼を語っても隠れなんとかのごとく黒田的な理論で腑分けするので、最先端で時代を突破するエネルギーを持った集団や個人に対して「評価しない」となってしまう。ふと、エコロジカルな思考と感性の冴えた立花隆の『中核vs革マル』を思い出し、彼我の力量の差は大きいものだと思った。
 さすがに、池上彰は全共闘運動や安保闘争を学生時代に体感しており、陰謀家ではなく放送記者として政治の現場を多角的に取材しているので、極めて抑制的であるが、悪霊的な讒言に翻弄されている感は否めない。佐藤優に、あなたも共産党に嫌われている自分と同じ反共仲間だと誘われても、ジャーナリスト的な聡明さで「違います」と言えただろう。もっとも、そうすると一緒に本を出せなくなってしまうからまずいのかもしれないが。
 「左翼」を自分が描いた図式の中に収めて、今後なんらかの影響力を行使しようというスケベ根性は好むところではない。共産党も社会党も関係ない。戦後のラジカルな運動は、国家の権力性を天上から地上に引き下ろし解体-死滅へ漸近していくこと、同時に市民社会の成熟と大衆の自立(自己権力の獲得)を国家に拮抗させていくことで、人間を疎外しない新しい共同体を形成する-闘いであったように思う。もちろん、多くの悔悟や依然として困難は立ちはだかっているだろうが、物差しで裁断する批評家の賑やかしとは関わりなく、経験は多様に蓄積され、時代に向きあう新たな人間的感性は生まれるものではないのだろうか、と本書を読みながら思った。
 圧倒的な読書量と知識量にはしばしば目から鱗が落ちることもあったが、北方領土問題ひとつをとっても政治工作のなかの処方箋では所詮は「治者の論理」であり、生活者大衆から浮遊した知的遊戯へと退行するわけで、本書で加入戦術家として語られている大田竜に似た存在はいるものだとも思った。


某月某日 
千早茜『赤い月の香り』(集英社 2023年4月)

 第168回直木賞を『しろがねの葉』で受賞した千早茜さんの受賞後第1作が本書となる。
 2021年10月から22年5月まで「小説すばる」連載作を加筆・補正した。やはり同誌に連載されていて第6回渡辺淳一文学賞を受賞した『透明な夜の香り』(集英社、2020年4月)の続編に当たる。
 登場人物の骨格は同じで、世界にただひとつの秘密の香りをつくり出し、その香りから依頼者が忘れていた記憶を蘇らせる天才調香師の小川朔(おがわ・さく)を主人公に、相棒の探偵、新城(しんじょう)、庭師の源(げん)さんがさまざまな業を抱えた人間たちに「気づき」を与えていく。前作のヒロインともいうべき若宮一香(わかみや・いちか)や血が好きなワイルド女子の仁奈(にな)さんの現在も語られる。もしかして、天才調香師物語はシリーズ化されるのだろうか。
 さて、本作のメーンキャストは「赤い月」の夢魔に追われている朝倉満(あさくら・みつる)である。なじめないままカフェレストランで働いているところに小川朔と新城のコンビが現れ、自分のところで働くよう誘う。渡された名刺には「la senteur secrète」とあった。そんなふうに小川朔の庭園のある調香工房で働くようになった朝倉は、風変わりな香りの依頼人たち-歌姫リリー、「小学校の教室の香りをつくって欲しい」という営業マンの持田青年、「嗅覚を取り戻す香りをつくって欲しい」という橘夫人、朝倉が盗み出した香りの虜になった歯科衛生士の茉莉花(まりか)など-の心の秘密を小川朔によって知らされていく。
 だが、本作の一番の心の闇の持ち主は朝倉であり、彼を常に追い込む母親との暮らしと事件の真相を薄皮を剥がすかのように、明かしてみせる。そして、小川朔がなぜ、見も知らぬはずの朝倉に声をかけ、仕事に誘ったのか、新城との関係を含め、その驚愕の真実も告げられる……。
 「香りは脳の海馬に直接届いて。永遠に記憶される/けれど、その永遠には誰も気がつかない。そのひきだしとなる香りに再び出会うまでは」(『透明な夜の香り』)という小川朔の信念。そのための天才的な洞察と調香術は本作でも縦横に発揮される。一方で母親との哀しい体験やギフト(天賦の才能)を持つものの孤独が基調低音となって物語の背景で鳴り続けている。

千早茜『男ともだち』(文藝春秋 2014年5月)

 第36回吉川英治文学新人賞候補。主人公は京都で暮らす29歳のイラストレーター神名葵。大学を卒業してさまざまなアルバイトをして自由業のような暮らしをしている。ようやく自分の本が出せるようになり、恋人の彰人と同棲しているが、堅気の勤めをする料理人でもある彼は食事の支度をしてくれるほかはゲームを一人でしたりして干渉はなし。神名葵にはお互いに不倫関係の愛人がいる。学生時代から一緒に暮らす「兄弟」のような仲良しのハセオもいるが、性的関係はない。そんな葵をめぐる男たちと「男ともだち」との切ない物語。

(再読)本作を最初に読んだのは千早さんが直木賞の候補になったときなので、もう9年前になる。あらためて読んでみると、ずいぶん勢いで書いていると読める部分がある。頭の良い作家なので、伏線など見事に回収していくのだが、本作ではなんとなく愚図愚図な感じがある。全てさらけ出して一回リセットみたいな。
 駆け出しのイラストレーターの「神名(かんな)葵」が主人公。まじめな料理人・彰人と同棲しているが、妻子持ちの勤務医・真司と愛人同然の関係にある。静と動。対照的なふたりとは別に、学生時代からの腐れ縁で「愛人でも恋人でもない」男ともだちのハセオ(長谷雄)がいる。学生時代からの女友達の人妻・美穂、宝塚の男役のようなバーのママ・露月などが話し相手相談相手として登場する。
 一緒に寝てもセックスもしない男ともだちがいるかどうか不明だが、本作のテーマは明快だ。不器用に自分探しを続けている女性がその答えを見つけるある種の巡礼の旅なのだ。登場人物はだらしなかったり、傷を負っていたりするが、つまりは彼女の影であり鏡たちである。そして、「ワイルドカード」が身近にあったことを知る。
 主人公は千早振る「神の名」を持つ「葵」。ワイルドカードは「長谷寺の男」である。『源氏物語』を連想しがちなネーミングで、「玉鬘」の巻にならえば、九州から流浪してきた玉鬘は霊験あらたかな長谷寺を詣で、自分を探していた光源氏との出会いが叶うのだ。神名とハセオの関係は人知を超えたものだ。面白い作品だ。

某月某日
千早茜『桜の首飾り』(実業之日本社 2013年2月)
 桜をめぐる7編の短編集。冒頭は「春の狐憑き」という作品。尾崎さんは「この管にはね。狐が入っているのですよ」と公園のベンチで言う。「狐はね、人の正気を喰います」とも言う。美術館に務める孤独な若林さんはついに桜見の約束をする…。「あとがき」で千早茜さんはアフリカで見た紫の花の「ジャカランダ(紫雲木)」が初めて見た桜だったと言い、「遅い北海道の春は花よりも鮮やかな新緑が目をひく。桜も最初から葉桜になってしまう」と書いている。

(再読)2023年の北海道の桜はいつになく駆け足で、4月中旬には開花し、5月初めにはあちこちで散り急いでいる。北海道では「これが桜だ!」という納得できる花に出遭ったことがないという千早さんによる京都を舞台に桜が紡ぎ出す幻想譚だ。
 「春の狐憑き」「白い破片」「初花」「エリクシール」「花荒れ」「背中」「樺の秘色」の7編構成で、それぞれ独立した世界だが、桜咲く公園の小高い丘の上にある古い建物の美術館が背景画のように顔をのぞかせる。
 「春の狐憑き」の初老の尾崎さんが醸し出す現実離れした物わかりの良さが本作の基底音となっている。彼が狐から聞いたという「昔、桜守と呼ばれた庭師がいて」という何気ないひとことは「樺の秘色」ではキヌばあちゃんの家に、その庭師がいたらしいことと響き合う。「花の首飾り」という表題作はないが「花荒れ」にエピソードがある。5人も愛人がいたというなぞのユキちゃんは「昔、桜の花びらで首飾りを作ろうとした」ことがあるという。だが、綺麗な花の首飾りは一晩で汚いけしすみのようになって消えてしまった。男はなにか消えないものをと思い、ピンクパールの首飾りを贈る。ありがとう、とユキちゃんは言うが、それが彼女を見た最後だった。「(世の中に)たえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」(在原業平)という一首も引かれており、全篇に桜が醸し出す心のざわめきが刻印されている。

某月某日

千早茜『おとぎのかけら 新釈西洋童話集』(集英社 2010年8月、同文庫 2013年8月)

 西洋のおとぎ話「みにくいアヒルの子」や「白雪姫」「シンデレラ」など7編をモチーフに作者の縦横な想像力がここでも発揮される。冒頭の「迷子の決まり」は「ヘンゼルとグレーテル」を原話としたものだが、母親の子ども(きょうだい)へのネグレクト、児童買春、子どものシンプルで残酷な犯罪などが少し遠回しに(おとぎ話風に)描かれる。作者のセンスが光る短編集だ。
(再読)あらためて、読んで最も印象的だったのは「凍りついた眼 マッチ売りの少女」であった。マッチ売りの少女は売春物語としてこれまでも語られてきたが、売春窟で出遭った薄幸の少女とある男の行為を覗き見するうちに、次第に正気を失って行く男の物語。人間はつくづく何かを反復しているのだと思った。
 私はいつも北海道との関わりで読んでしまう。覗き男が少年期に体験するのが「お隣の女の子」の死であるが、こんなふうに描かれている。
 <ある雪の晩、帰ってこないと騒ぎになって、雪解けの頃に見つかった。
 女の子はどこにも行ってはいなかった。彼女は自宅の軒下に埋まっていた。
 まだ結露の多い家ばかりだった時代だ。冬はどこの家の軒下にも大きなつららができていたし、それで怪我をしたり、屋根から落ちてきた雪に埋まってしまったりする人は、雪国では珍しくはなかった。
 女の子が埋まっていた軒下は、ちょうど私の部屋の向かいだった。>
 怖い!
 もちろん、希望を感じさせる短編もある。「金の指輪 シンデレラ」。シンデレラがガラスの靴なら、本作の「僕」はある少女の残して行った金の指輪を拾う。この靴ならぬ指輪がぴったり合う人を捜すのだが、なかなか見つからない。伯母の家で庭の手入れをしている女性(庭好き、植物好きは千早さんの作品の重要なプラス要素だ)に心惹かれるが、彼女の指はごつごつしていて指輪が合いそうもない。だが、リングはぴったりと嵌まる。それは「僕」が先入観に囚われていたからだった。彼女の中でリングはちかりと光る。なーるほど、のハッピーエンド。

千早茜『あやかし草子 みやこのおはなし』(徳間書店 2011年8月)
 「いにしえの都に伝わるあやかしたちを泉鏡花文学賞作家が紡ぐ」と帯にある。どれもすごみのある奇想の物語である。「鬼の笛」は鬼から絶世の美女をもらっ た笛を吹く男の話。美女は人間の屍から作られており、百日前に触れると元の死骸に戻ってしまうという。だが、アンビバレンツな心の中で、男はついに禁を破ってしまう…。奇跡を起こす笛の音の秘話か。「ムジナ和尚」では人間の、というか古ムジナの孤独と絆が描かれる。
(再読)あやかしはこの世とあの世、あるいはもうひとつの世界の境界線が曖昧になってしまうときに現出する。
 あらためて読み直して印象に残ったのは「機尋(はたひろ)」という短編であった。染屋の柳という男と少女紅(もみ)は都の東の山に住んでいるが、月に1,2回都に下りてくる。目指すは「無数の細い路地があり、その路地の両側には格子張りの織屋が軒を連ねている」町である。あるとき、紅がひとりで得意先の宮津屋に使いに出たが、夕焼けが燃えている頃に、紅は姿を消してしまう。「遊ぼうぞ」。紅は異界に入り込んでしまった。そこは赤き町を織っている古機「機尋」が紡ぎ出している世界だった……。
 紅にとって異界は畏怖する場所ではなかった。むしろ、彼女が見ることができなかったある色を見られる幸運な場所でもあった。その上で、「この町の外に世界はもっと広がっているのよ」とあやかしの世界を抜けることを訴える。ここにも希望がある。

某月某日  
 田中綾『あたたかき日光(ひかげ) 三浦綾子・光世物語』(北海道新聞社、2023年3月)
 『氷点』『泥流地帯』『銃口』などで知られる作家・三浦綾子の伴侶として執筆活動を支えた三浦光世(みうら・みつよ)さんの日記をもとに近現代文学研究者の田中綾さん(三浦綾子記念文学館館長)が綾子・光世ふたりの愛と苦難と情熱の歩みを物語にまとめあげた。

 三浦綾子の戦争と病気と恋愛に大きく振られて振れた波乱に満ちた半生は自伝(小説)『草のうた』『石ころのうた』『道ありき』『この土の器をも』、あるいは三浦綾子電子全集に「付録」として収められている三浦綾子本人および三浦光世による「創作秘話」(たとえば『氷点』『泥流地帯』など)、ふたりのエッセイ集などですでに知ることができる。とりわけ、朝日新聞の懸賞小説に応募する前後、布団の中で書き上げた『氷点』の原稿一千枚の束を持って三浦光世が締切期限の1963年12月31日午前11時に旭川郵便局に駆け込み、念のためスタンプを二度押してもらったエピソードなどは有名だ。

 そんなふうに、綾子と光世夫婦は作者として多くの興味深い身辺もようを書き残している。ゆえに本著者は自伝類の屋上屋になることを避けつつ、主に光世の視点をトレースしながら、彼らが「あえて」公開していない部分から、心と生活の機微を名探偵よろしくあぶり出していく。行間を読み解く補助線として若干の想像力(フィクション)を交えているが、小説でありながら新しい発見を盛り込もうとする挑戦意欲のほうが光る。たとえば、1958年10月、交際して初めて見た映画が封切り上映のマックス・ノイフェルト監督の「野ばら」(8月23日、日本公開)だったそうで、映画の中のウィーン少年合唱団の歌声を聞き終えて、綾子をバイクで家まで送った光世は「短くくちづけを交わ」したという。

 田中綾さんは2017年から余人を以て代えがたしと、乞われて三浦綾子記念文学館館長となった。『非国民文学論』というエッジの効いた論考を持つ気鋭の研究者であり、戦後短歌批評の領導的論客であった菱川善夫門下の俊英歌人として出発した。クリティークの分野では詩歌表現とナショナリズムをめぐる問題に造詣と考察が深い人である。それゆえ、この『あたたかき日光』では、綾子・光世ふたりの心情を照射する手がかりとして短歌に注目しているのが特徴だろう。綾さんは2014年に「三浦(堀田)綾子の短歌――「アララギ」土屋文明選歌の考察」(公益財団法人北海道文学館刊行「資料情報と研究 2013」)という論考を書いており、早くから短歌を通じて三浦綾子論を深めようとしていた。

 戦後混乱期、療養中の三浦綾子は、「虚無的で生活が乱れていた」。それを見かねた幼馴染の医学生(=前川正)が、聖書を読むことと、短歌をつくることを強くすすめてくれた」のが転身の始まりだった。前川正の励ましで、土屋文明の「アララギ」および「旭川アララギ会」で、自己省察を深める歌を詠んでいく。「幸福な三浦との生活の中で、私は歌を詠むこともなくなってしまった」と綾子は記していたというが、前川以上に熱心な短歌作家であった光世とふれあうことで歌心は日常のものであった。

 1969年5月24日、10回目の結婚記念日の光世の歌。

  あたたかき日光(ひかげ)に廻(めぐ)る花時計見て立つ今日は結婚記念日

 そして、綾子の光世に捧げる詩。

  光は個体になるのだろうか
  はじめてあなたに会った時
  私は本当にそう想ったものだった。

  光が声になるのだろうか
  はじめてあなたの讃美歌をきいた時
  私は本当にそう思ったものだった。

  あれから四年
  あなたはギブスにねていた
  肺病やみのわたしを待っていてくれた。

  そして更に十年
  あなたはすてきな真実な夫だった
  優しくて、親切で、時には怒りっぽくって。
  決して光が個体になった天使ではなかったけれど
  光をさし示しながら共に生きてくれる立派な人間の男だった。

 俗な人間である私などは綾子さんにとって光世さんは光の国からやって来た「ウルトラマン」みたいな存在だったんだなあ、とやっかんでしまうほど、ふたりの愛が深いことがわかる。
 三浦綾子はかつて西中一郎という青年と婚約しながら破棄しているが、再会した西中に次のような歌を贈ってもいるそうだ。

  婚約者たりし吾がため煙草断ちし君二十余年後の今も煙草を喫まず

 本書はそんなふうにふたりの歌物語としても読めるのだ。

 田中綾さんが三浦綾子記念文学館館長になる話があった頃、未知であった彼女の人柄に振れようとお忍びで大学を訪れた関係者に、ひょんな縁で私もお会いしたことがある。その時、三浦綾子さんにはかけがえのない友である木内綾さん(旭川の創作織物「優佳良織」織元)がいて、三浦綾子文学館には田中綾さんが光世さんの後代を托される館長となるというのは、まさしく見事な「綾」の織りなす縁(えにし)だなあ、と感慨深く思ったのを覚えている。

 本書は1年間にわたって毎週土曜に北海道新聞に連載された。たぶん、田中綾さんにとっては初めての本格長編小説である。あまたあるエピソードの取捨選択に苦労しただろう。その意味では続編も期待される。なお、本書には連載時にも添えられていた「補足メモ」も収載されており、こちらも貴重な資料であり、背景説明として読み応えがある。


 関係サイトもある。
三浦綾子記念文学館web 田中綾館長ブログ「綾歌」
    https://www.hyouten.com/category/aya-uta

北海道新聞デジタル  「あたたかき日光」連載を終えて
    https://www.hokkaido-np.co.jp/article/818119/
    https://www.hokkaido-np.co.jp/article/821144/
                       (無料部分は字数制限あり)

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某月某日
 千早茜『正しい女たち』(文藝春秋 2018年6月、 文庫kinndle版 2021年5月)
 「温室の友情」「海辺の先生」「偽物のセックス」「幸福な結婚」「桃のプライド」「描かれた若さ」の6篇からなる連作短編集。中学校の時から友情を温めてきた遼子、環、麻美、恵奈の女子4人組。濃密な友情で「わたしたちはなんでも話した。それぞれの彼氏のセックスの癖からペニスの形状まで知っていた」という<共>心身感覚の温室から離れていくに従い、それぞれの人生も友情も変わっていく。その絆をあえて形容すれば「正しさ=普通であること」への意志というべきか。不倫に走る友を救うべく密告をしたり、彼女らの鏡のように浮気をする夫に対して「正しいセックス(婚姻外セックスの禁止と婚姻内結婚の完全なる自由)」を主張する女が登場したり、普通から抜け出ていた才能(タレント性)の持ち主がヒエラルキーの世界に戸惑い、普通の世界の団塊としての暴力性に気づかされたりする。正しく生きることは大切だが、幸せになるとは限らない。
 女子4人組のメーンストーリーのスピンオフが「海辺の先生」。スナックの娘とひょんなことから彼女の先生となってしまった会社員との成長物語。スナックの母娘の圧倒的な正義パワーに対し、弾みで善人になってしまった「先生」はすこぶる純情である。少女の出発のお祝いに先生はブルーの万年筆をプレゼントする。その瞬間、お互いの手が触れるのだが、それだけ。万年筆は使われないまま、少女の机のひきだしの奥に仕舞われている。読者の私は「先生」になり「万年筆」になって物語を追体験しながら、男はつらいよ、とトラさんのように夕暮れの道をとぼとぼ歩いてみるのである。

   <「千早茜研究ノート」へ

某月某日  免条剛『小説作法の殺人』(祥伝社、2022)
 実はずいぶん前に読んだのだが、時期的な問題があって紹介しなかった推理小説がある。それが免条剛さんの『小説作法の殺人』だ。免条剛さんは易しい「めんじょう・つよし」より、本名の面倒くさい「校條剛」さんの方が有名だ。なにしろ大衆小説分野の名門雑誌「小説新潮」の編集長を務められた名伯楽。自著には評伝『ぬけられますか 私漫画家滝田ゆう』『ザ・流行作家』などが知られる。退任後、しばらくは京都で大学の先生もされていた。
 若手作家の育成委指導をされていた校條さんが「小説はいかに書くべきか」と実作指南をしたのが本書。ひとりの女性の不審死の謎解きを依頼された私立探偵・常念勝(ネーミングが本人っぽい)が女性の友人とともに神戸、京都、大坂、沖縄(石垣島)へと真相解明の危ない旅を続けていく……。ハードなアクションあり、インテリジェントな思考あり、推理小説には欠かせないどんでん返しありで、飽きさせない。ちなみに、常念とともに、同時進行の物語の回し役が並木幸太郎という小説教室の講師。こちらも設定が校條さんだ。
 ネタバレになるといけないが、本書末尾には無国籍問題と阪神淡路大震災関係の書籍が参考資料としてあげられている。私が本書を読んだのが、阪神淡路大震災から28年のメモリアルの時期だったもので、短絡的に勘違いされては困るので本書を紹介することを避けたのだ。
 本書が当時の悲劇を記録するとともに、現代的(同時代的)な個人や家族の問題に迫っていることは作品を読めばわかるだろう。
 「作家になりたいのなら、絶対にしなければならないことがふたつある。たくさん読み、たくさん書くことだ。私の知るかぎり、そのかわりになるものはないし、近道はない」(スティーヴン・キング著 田村義進訳『書くことについて』小学館)
 作者と登場人物(並木幸太郎)が繰り返し述べているミステリー上達法のキモがこれだ。とりあえず、私たちはもっと本を読まなければならないと言われているようだ。


某月某日
 新聞の報道によると、<30年札幌五輪「困難な情勢」 IOCが日本側に伝達 地元支持高まらず>ということで、2030年に札幌市が開催を目指していた冬季オリンピックは極めて厳しくなったようだ。
 詳しいことはよくわからないが、一市民としては国民道民市民の血税がぼったくられなくて、良かった、と思った。大金を出す余裕があるなら、今すぐ住民生活のために使ってほしい。
 もちろん、スポーツビジネスの特権階級はネギを背負ったカモを簡単に手放すとは思えないので逆にハードルをあげ、どうしても2030年にやりたいならもっと予算を用意してとか、2030年はダメでも2034年までには反対世論を一掃して、みたいにさまざまなチャンネルで圧力をかけてくるかもしれない。数十年にわたってつくられた上納システムが簡単には停止するとは思えないので、札幌市長ひとりがこの無理難題力に抗しきれるかどうか、正直、不安は残っている。
 それはともかく、時間はないけど、あらためてオリンピックって何?と考えたいなら、岩波ブックレット1057、小笠原博毅、山本敦久『東京オリンピック始末記』(2022)の一読をお勧めしたい。電子書籍で70ページで、しかも572円なので、ノーベル賞級作家の新作を読むほど大変ではない。オリンピックが独占する「スポーツの力」なるものがいかに虚構であるか一時間もかからず再確認することができる。「オリンピックという超越的な何かがあらかじめ存在していると考えることをやめなければならない」。確かにそうだというのが読後感である。

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