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北海道文学を中心にした文学についての研究や批評、コラム、資料及び各種雑録を掲載しています

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研究批評cRITIC

 北海道文学関係の研究・批評を掲載します。
 

 伊藤整を読んだ頃

 青春期とはその明るい語感と裏腹に暗い坑道に降りていくような重苦しさにもがく日々であったと、多くの人が時を経て思い起こすものではなかろうか。
 昭和四十年代(一九六〇年代中葉から七〇年代前半)の社会的激動期に青春を過ごした私もそうだ。今なお座右の言葉であるルーゲに宛てたマルクスの手紙の一節「そしてそれでもなお私が絶望しないならば、私を希望で充たすものは、現在そのものの絶望的な状態なのです」を心に刻み、彷徨していた。
 マルクスは唯物論者であるから、物質的な力は物質的な力でたおすしかないと考える。一方で理論も人の心をつかむと物質的な力になると述べ、そのために理論はヒューマニスティックでなければならず、ヒューマニスティックになるためにはラディカルでなければならない、という。ラディカルであるとはものごとを根本からつかむということ。少ししつこいが、このレトリックが彼の弁証法の醍醐味だ。ものごとを根本からつかむにはどうすればいいのか。「人間にとっての根本は、人間そのものである」
 目からウロコ。壮大なゼロというか、ぐるーっと回って振り出しに戻る。それがマルクスの思想の底を流れるものだった。
 そんな時期に伊藤整(一九〇五〜六九)を知る。彼の魅力は「ひとはなぜものを書くか、文学に惹かれるのか」を考え続けたこと。
 「みんなはきまったヤードを作ってゐるのだ。/それを解らないのは俺だけだ」(「社会」)。初期の詩集「雪明りの路」には確かに自然=恋愛詩が溢れているが、多くは居場所のつかめない人間の葛藤の記録である。
 息苦しさは故郷・小樽から東京に出ても変わらなかった。矛盾に満ちた社会の変革を目指すプロレタリア文学者たち、自らの破滅を美学とする私小説家たち、ゆるぎなき生活の調和をめざす心境小説家たちが跋扈する。
 熱い行動者たちに抗するためには、どうすればいいのか。より深くヒューマニスティックで、ラディカルになるしかない。手探りの伊藤整が発見したものこそ、エゴイズムと生命とを情熱の根底に置いた「芸による認識」「本質移転論」という芸術原論であった。
 「どのような秩序も、常に人間の生命というものにとっては、まだ不満である」
 「小説の方法」「小説の認識」「求道者と認識者」、〈組織と人間〉のアポリアを近代日本社会と表現者の運命として描く「日本文壇史」をその見事な果実とすれば、それらを凝縮したマニフェストこそ「文学入門」(光文社、一九五四)。
 「文学入門」からは文学者が背負ってきた戦いと可能性のすべてを知ることができる。名作と言われる志賀直哉「城の崎にて」、横光利一「機械」はもちろん、谷崎潤一郎の文学の世界史的位相を解明してみせている。
 「文学入門」は吉本隆明の「言語にとって美とはなにか」の自己表出・表現転移論とともに、青年の心を揺さぶる考究の宝庫だ。
 ちなみに伊藤整は「文学入門」を出した一九五四年(昭和二十九年)は「女性に関する十二章」がベストセラー、「火の鳥」人気も続いていた。表層的なブームの絶頂にありながら決して根源的あることを失っていない。初々しい詩人の魂がそうであるかのように。
 「鳴海仙吉は自殺もせず、革命もしませんでした」と伊藤整は言う。だが、心が冷えた時でも、困難な場所で書き続ける不屈さを教えてくれる一冊である。
 そのように、伊藤整に導かれながら、私の文学彷徨は始まった。

           (公益財団北海道文学館「館報」第93号、2014年4月19日執筆)

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子母澤寛の方へ 1ewpage5.html への子母澤寛リンク

子母澤寛(1892〜1968、石狩市厚田区出身)についての私稿を掲載しています。

二〇一八年の子母澤寛の方へ
  ―流亡の果て、紡がれた無頼三代の夢―

 私たちは同じ事実に接していながらも、全く違った世界を感じることがある。たとえば戦争がそうだ。「終戦」という現実の前には勝者と敗者がいる。戦争は民衆の誰にとっても悲惨な結果しか招かないが、幻想とはいえ勝者の側には一瞬でも昂揚感が訪れるのに対し、敗者の側にはすべてを失った痛みが相乗的に襲来するだけだろう。
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子母澤寛の方へ 2

「石狩ルーラン」の残響を追って
――河合裸石と子母澤寛・三岸好太郎メモ――

 子母澤寛(しもざわ・かん、本名・梅谷松太郎、一八九二〜一九六八)は「厚田村(現石狩市厚田区)」に生まれた時代小説家である。『新選組始末記』をはじめとした新選組三部作、『勝海舟』『父子鷹』などの傑作を持つが、勝新太郎主演の映画「座頭市」の生みの親といったほうがわかりやすいかもしれない。異父弟で札幌に生まれた三岸好太郎(みぎし・こうたろう、一九〇三〜三四)は「猫」や「道化役者」「オーケストラ」「のんびり貝」「海洋を渡る蝶」など次々と新しい表現世界を描き出した夭折の天才画家である。
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有島武郎と「星座」論

一八九九年の有島武郎の方へ
       ―『星座』の街・札幌を歩く―
 有島武郎(ありしま・たけお 一八七八〜一九二三)の『星座』(叢文閣、一九二二年)は札幌を舞台にした未完の小説である。物語の設定は若干の曖昧さを残しているが、一八九九年(明治三二年)となっている。本稿は有島が生き、作品に描いた一八九九年の札幌の街へと漸近する試みである。  こちらをクリックしてください。


桜木紫乃の方へ

二〇一三年の桜木紫乃の方へ

 二〇一三年の北海道文学についてジャーナリスティックに語るならば、「新官能派」作家として知る人ぞ知る存在だった桜木紫乃がキャラクターの魅力も加えて、存分に飛翔した年として記憶されるだろう。それほどに七月十七日の第百四十九回直木賞選考会で『ホテルローヤル』(集英社、一四〇〇円)の受賞が決定して以来、桜木紫乃は北海道内外で注目を集めることになった。
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佐藤泰志の方へ

一九八一年の佐藤泰志の方へ
   ―童話「チエホフの夏」を読み解きながら― 

ここで論じる佐藤泰志(一九四九〜九〇)は北海道・函館に生まれ育った現代作家である。少年の日に「作家になる」と自らを鼓舞するように記し、函館西高校時代には「青春の記憶」「市街戦の中のジャズ・メン」で二年連続、有島青少年文芸賞優秀賞を得た。とりわけベトナム戦争への日本の加担が危惧される中で学生たちの反乱として現出した一九六七年十月八日の佐藤栄作首相外遊阻止の羽田闘争事件に触発された「市街戦の中のジャズ・メン」にあふれる時代を五感で受け止める感性は当時の若い世代に衝撃を与えた。同作はおそらく今でも佐藤泰志の代表作の一つである。
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佐藤泰志の方へ 2

佐藤泰志の〈場所(トポス〉
  〜函館から海炭市へ〜

 佐藤泰志(さとう・やすし、一九四九〜九〇)は四十一歳で自死したが、有島武郎の名を冠した北海道の青少年文芸賞で颯爽とデビューした十七歳から生涯を閉じるまで二十五年間にわたって、自己の内面と体験を凝視し、家族や社会、戦後という時代との関係を問う青春小説を、純文学の文体の緊張感を失わずに書き続けた作家である。
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