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北海道文学を中心にした文学についての研究や批評、コラム、資料及び各種雑録を掲載しています

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 何を読むべきだったか 1988

 某月某日 蓮実重彦・柄谷行人の『闘争のエチカ』を読む。この人たちは頭がよすぎるのか、言っていることがどこまでかみ合っているのかこちらには判らないところが多い。要するに、制度と共同体にしばられた現代批評言語を批判したいらしいのだが、この種の言説自体が私には疑わしく思われる。柄谷はキザなスタイルでの挑発をやめてもう少し腰を据えて語るべきではないのか。

 某月某日 立花隆『同時代を撃つ』。「週刊現代」に連載していた「情報ウオッチング」をまとめたもの。常識的なところが目立つが、先入観を持たず事実を冷静に分析しているところが、立派だ。原発、公安警察批判、対米問題それぞれに説得力がある。

 某月某日 野坂昭如『君が世なれば』。無頼派の面目躍如というところか。「新聞記者よ、『羽織ゴロ』精神を忘れるな」なる一文、まあ、通俗の気味あれど痛いところをついている。「新聞記者なんて、元来、羽織ゴロといわれ、嫁の来てもなきゃ、大家にも毛嫌いされる存在だった。今も、政治部記者の、みるもおぞましいネクタイ、いやしい食い気、下品なものいい、威張りかただけは、昔からの筋を受けついでいるが、中味は、まるっきり小市民」「元来、新聞記者というもの、文章が荒っぽい。才能の無い手合いが、無けりゃ無いで素直になれば、またそれなりの味わいも滲み出るだろうに、頑迷固陋なる古手や整理部が、これを直す、故に新建材による縄文住宅みたいな記事がしたて上るのだ。政治家の演説、官僚の答弁、ブンヤの文章、三大紋切型、空疎三筆といっていい」。ここは一応、反論は控えてひたすら傾聴しておくこととする。

 某月某日 広瀬隆『ジキル博士のハイドを探せ』。データベースを駆使しての原子力発電所問題、世界を動かす巨大資本家の実態を詳細に調べた力作。印象としては随分と国家を超えて資本家たちの連携が進んでいることに驚く一方、経済過程と政治過程を統合するものとして国家意志の役割を少し過小評価しているようにも思われた。広瀬さんはどうしても瑣末的になりやすい。
 ところで『危険な話』以降、“ヒロセタカシ現象”が広まったのに対して、電力会社はもちろん、政府、行政諸機関、さらには草の根エコロジストの続出に驚いた共産主義者(共産党、一部新左翼)らが、反広瀬隆キャンペーンを積極的に繰り広げ始めている。政府や電力会社の「日本の原子力発電所はソ連・チェルノブイリとは違う」「原子力発電所は電気の安定供給に欠かせない」というステロタイプ化した主張は論外として、いわゆる共産主義者の原発必要論は彼らの科学主義の限界をよく示しているように思われる。彼らは要するに原子力の解放が人類史の進歩であり不可欠であるという、その一点から反原発論があたかも歴史に逆行するかのように批判してしまうのだ。だが、考えても見よ。現在の原子力発電は経済効率を優先して進められ(利権であり)同時に戦略的施設(政治)であることは明白ではないか。科学的共産主義者たちが原発の危険性は科学の力によって克服しなければならない(あるいは克服できる)と力説したところで現実的には危機はそうした悠長な科学的成果など待ってはおらずどんどん進んでいるのだ。世界中に撒き散らされた放射性物質による汚染で、人類の少なからぬ部分が発病し死んでいっている事実をまず直視すべきではないのか。そのことを前面に掲げる主張が一見エコロジストに屈服するように見えても、それは仕方がないことなのだ。科学の持つ時間のスケールと人間の生きている時間のスケールは全く違う。仮に原子力エネルギーを統御できる日が来たとしても、そのときには人類が死に絶えていたのでは遅いのだ。
 原子力の研究は一定の厳しい条件(管理)の中で慎重に進められるべき状況におかれている。そのためには利権と国家的戦略が、人類史の未来よりも優先している原発の現状を第一に批判すべきであり、即ち「原発ノー」というべきであり、同時にそうした体制を変革していく必要がある。科学者は目先の研究にのみ盲目になるな。そして共産主義者は原発推進論者との野合(たとえば代々木系「文化評論」と保守系「文芸春秋」論文の一致)などに走らず、教条にとらわれず、まず現実を直視する謙虚さを持て。さもなくば共産主義者の歴史的凋落は一段と加速することであろう。

 某月某日 野坂昭如『赫奕たる逆光』。サブタイトルは「私説・三島由紀夫」。なぜかこのところ三島由紀夫論がブームの感じがある。この本は野坂のところに三島の日記を持っているという男からの電話があったところから始まり、三島と野坂のかかわりが両者の家庭背景、小説家デビューの因縁、その後の交流、そして三島文学の世界に踏み込んで展開されている。男色家の三島の行状やその原型を形成したとみられる祖母に育てられた幼年期について、野坂流の洞察が試みられている。『仮面の告白』に触れ、「三島はすでに、男色者たり得ぬ自分に気づいていたのではないか。(中略)三島は、後者より(注・性倒錯者にしてマスターベーショニスト)なお純粋なオナニストだった」という指摘は、三島の孤独をよく言い当てているように思う。
 私自身もまた、三島文学に深く影響を受けた時期がある。今となっては懐かしい思い出としてしか、考えにのぼってくることはないが、昭和の終末に連動させる形で三島を論じようとする諸傾向とは一線を画して、いずれじっくりと書く機会を持ちたいと思う。

 某月某日 「噂の真相」八月号。唯一の継続購買月刊誌。このところ業界の内輪話が多く、今一つ、当初の戦闘的・ゲリラ報道の迫力に欠ける。一行メモにしても、日教組がポスターに国生さゆりを起用しようとして断られた話なんかが載っていたが、これなんか何をいまさらの昔話だもんな。投書コーナーもなんだかトリビィアルなところで大騒ぎしているばかりだし、マニア的でいてそうでないようで早い話が中途半端になってしまっている。「平凡パンチ」一二一六号。こちらは唯一の継続購買週刊誌。相変わらずヌード・グラビアと偏執症的企画とマンガ(及びマンガニュース)だけ。このアホに徹したところがいい。女性週刊誌の厚顔ぶりもないし、総合(サラリーマン向け)週刊誌の総花主義もないし、写真週刊誌の偽善(正義の顔をした下卑な劣情)もない。最近は、ライバル誌の「プレイボーイ」や「朝日ジャーナル」を余り買わなくなったが、多分前者はちょっぴり市民権を得た分だけ良識が顔をだしてしまったし、後者は結局良識を装った俗論の塊に陥っているのが、私の趣味に合わないらしい。「週間読書人」第一七四二号。蓮実と柄谷の『闘争のエチカ』刊行記念シンポジウムの記録が掲載されていて興味をひかれた。スガ秀実が例によって柄谷の子分らしく間を外した話しぶりで自己満足に陥っているが、どうしようもなく無残のひとことに尽きる。「抒情派に対していかに嫌味を言うか」とか、共同体論に対して、つまらぬ無知をさらけだして津村喬と吉本隆明の論争をそんなところに結びつけたりして、本当にどうしょうもない。スガ自身がその当時、どう振る舞っていたのか。共同体論がリアリティを持っていたことをよくしっているはずだ。それと、ニューアカ小僧たちや吉本、津村を結びつけて、現状批判ができると思ったら大間違いではないか。

 某月某日 橋爪大三郎『はじめての構造主義』。ポスト・モダニズムだのポスト・構造主義だのが幅をきかせている昨今だが、構造主義の魅力をレヴィ=ストロースにそくしつつ、分析したもの。入門書とはいえ大変鋭い指摘が多く、かつ刺激的な好著といえよう。かつて北沢方邦の案内書がでたことがあったように思うが、その当時ははっきり言って奇異な思想という印象しかなかったような気がする。もちろん、読み手の側がいわゆるマルクス主義の復原に固執していたせいもあるが、やはり、紹介の仕方が問題意識を含めて、甘かったと言わざるを得ない。橋爪の紹介によれば「構造主義を思い付いた彼のアイデアのもとをたどると、どうも遠近法と数学にいきつくらしい、という話をしてみました」という。私には橋爪の現代的な問題意識がよく判る。ヨーロッパ近代の成れの果てに生まれてきた構造主義という思想の意味も含めて。しかし、その方法の一定の有効性については認めつつも、やはりその思想に与する気にはなれない。私自身は三浦つとむによって既に、『マルクス主義の復原』『認識と芸術の理論』『言語学と記号学』などの著書によって、正確な批判がなされているとの考えを変更する気にはなれないし、今後、三浦の理論的達成を継承発展させていくことを目指したいと思う。

 某月某日 桜井哲夫『ことばを失った若者たち』を再読。「子どもたちは、『観念(理屈)』を通して世の中と対面しない。彼らは、まず『からだ』を通して世の中と対面する。原因不明の、大人たちにはわけのわからない自殺は、『からだ』を通しての世の中への違和感の表明、さもなくば悲鳴だったのではなかったのか。自分が自分であることが、まず『からだ』の実感からくるものだとするなら(若者になればまず『観念』から確認する)、学生叛乱の異議申し立てとは違って、『からだ』によってしか意思表示は可能ではない」。現代若者論。いささか図式的なところが気になるが、文化論を体験とクロスさせつつなかなか面白くまとめている。

 某月某日 ロシア文学研究家で、いまや北海道の文芸活動の第一人者となりつつある工藤正広さんから、この地方の有力文芸誌『H』が送られてきた。ペンネームで小説を書いている。かつての学生時代のころを回想的に記した部分があり、一種の半自伝というところか。いつもながら大変リリカルな文体に感心させられる。ただ、いつも思うことだが、どこかでくいたりない。古井由吉のかつての朦朧体文学に似たところがある。もっと、野蛮にという言い方は的外れだな、という気はするもののやはり、そう言いたい感じがした。
 『北方文芸』七月号「風見鶏」欄で森山軍治郎が「いつも評論を書いている有土健介(谷口孝男)は三年半にわたる東京生活を終えて北海道に戻ることになった、というわけで『東京めもりある』を書いている。です・ます調でおもしろく読めた。それでいて彼がアイドルとする吉本隆明批判もあったりして、いつもこんなふうにわかりやすく読みやすく評論が書けないものか、と思った」などと書いている。余計なお世話だね、軍ちゃん。こちらは頭の論理構造が偏執的になっているんだよ。そりゃあね、アリストテレスじゃないが、しっかり論理明快な文章もいいわいな。だけどね、直接的に言いたいことがねじれてしか表現できない場合が、こちらには多いわけさ。だから、ついついしつこいような書き方になって、同じようなことを最低三回は繰り返したり、それでも言い足りない不安にかられているのが現実だし、他人には断絶的に見える飛躍した表現や反対に徹底的に紋切り型の表現が跳びだしちゃうというわけ。別にこちらは原稿の枚数で金を稼いでいるわけじゃないから、その結果少々長い文章になってもいいの。鷲田小弥太の大兄もすぐテーゼ的にと言うけど、それは哲学者(それも悪名高いマルクス主義一派)の劣性遺伝なんだよね。早い話、そんなテーゼが大好きだったのがスターリンで、お陰でロシア革命の功労者はみんな、粛清されてしまったし、そのスターリン大好き人間だった毛沢東も語録なんてテーゼ集を作っちゃった。毛沢東は、語録の中で「世のなかで、いちばん手間がかからないのは観念論と形而上学である」なんて、書いているけど、わかりやすい言葉で自分に敵対するものはみんな観念論者として打倒しちゃった。軍ちゃんや鷲田大兄も、まだいろんなところがスターリニストじゃないのかなあ。そういう意味じゃ、工藤正広さんは、そこんところ良くわかってるんだと思う。また、飛躍してわかりにくいこと、書いちゃった。

 某月某日 かねてから話題になっていたミヒェル・エンデの『モモ』をようやく読み終わった。エピソードの積み重ねと大変明快なテーマがうまく絡みあって、うわさに違わぬ名作と思った。主人公のモモという存在は一種の「まれびと」であろう。彼女は積極的に何事かを為すのではなく結果的に何事かを為してしまう。この構造は私達が主人公のモモ自身に変容することを可能とするとともにモモの冒険は実は私達自身の冒険であることを暗示している。時間泥棒に盗まれた時間を人間に取り返すモモの闘いはもしかしたら私達自身の闘いなのかもしれない。現代社会は時間といものをあたかも幸せを得るための担保にしてしまったかのように、私達の前に存在している。そこでは効率こそが総てであり、計量化できないやさしさとか温かさのようなものはあらかじめ排除されてしまっている。『モモ』の物語が多くの人々に支持されているとすれば現代のシステムの風圧は人間の深層にある感性を解体しきれていないわけで、少なからず気持ちが休まる思いである。

 某月某日 北野さき『ここに母あり――北野さき一代記』。ご存じビートたけしの母君の処女出版。彼女はペンキ職人の夫に苦労させられながらも、子供達を世間的な意味でたいへん立派に育て上げた女傑として知られている。「だれだって、いい家に生まれたいでしょ、お坊ちゃんお坊ちゃんって育ちたいでしょ。それが不幸にも貧乏な家に生まれてしまった。子どもにはなんの責任もないのに、のっけから、貧乏ってお荷物をしょって生きなくちゃならない。親にできることといったら、教育をつけてやることぐらいしかない。体につけた財産は、どんな泥棒だって盗めやしないですからね」と彼女は書いている。ここにあるのは紛れもなく日本的近代の発展を支えた立身出世のエトスである。批判することは簡単だが大衆の実存として見る時、その生き方をとやかく言うのはむなしいような気がしてしまう。

 某月某日 山内亮史ほか『中島みゆきの社会学』。小生も参加した『中島みゆきの場所』(青弓社)の続編というところか。力作もあれば、ちょっと違うなあという論文もある。もっと多くの人がみゆきを論じるようになればいよいよバトルロイヤル風になって面白くなる。

 某月某日 伊佐千尋が『成田空港東峰十字路事件−衝突』(文芸春秋刊)を出したというので急いで買い求めた。既に鎌田慧が『三里塚東峰十字路』(第三書館)を書いており、被告グループもそれぞれ、この事件とその後の動きが権力の思い上がりとデッチアゲによるものであることを明らかにしている。それらを踏まえた上で、この高名な作家がどのような切り口で同事件を取り扱うかが注目されたが、はっきり言って駄目。薄っぺらな理解では闘いの本質にも情念にも全く触れられることが出来ない無残な姿をさらしているだけだった。流行作家のあほ加減が良くわかるという意味で、いくつかの文献と比較しながら読んでみるのも一興かもしれない。

 某月某日 近代社会に対する鋭い批評を続けている桜井哲夫が『思想としての60年代』(講談社)を書いている。いきなり「ぼくは二十歳だった。それがひとの一生でいちばん美しい年齢だなどとだれにも言わせまい」というポール・ニザンの『アデン・アラビア』が引用されている。江川卓という野球選手の意味の分析を始め、風俗と思想の六十年代グラフティーという感じで楽しく読める。でもね、吉本隆明さんに対する部分は、こちらが未だに吉本さんに注目しているせいか違和感を覚え、どうかなあと思った。

 某月某日 西部邁の『剥がされた仮面 東大駒場騒動記』(文芸春秋)。例の中沢新一君を駒場に迎えようとして内部の反対に合い、結局、辞表をたたきつけた西部教授の「闘争」の記録。登場人物の華麗な顔触れに惑わされなければ大学教授の馬鹿さ加減がよくわかる。やっぱり全共闘は「帝大解体」を徹底的に遂行すべきだったのだなあ、と感慨大。良心的知識人なんて打倒すべき対象であることはかつても今もかわりない。

 某月某日 泉麻人『あやふやな季節』(角川書店)。テレビ小僧の初めての書き下ろし長編小説とか。精一杯不良ぶっていたことだけはよくわかった。だけど、本当にかっこばっかりつけたシティーキッズの空しさぶりっこにはへどが出る。風俗小説としてみても、あの田中康夫君に遠く及ばない。

 某月某日 小室直樹『韓国の崩壊』(カッパ・ビジネス)、五島勉『1999年以後』(祥伝社)。どちらもどこまで本気なのかわからない場所で力んでいるところが面白い。疲れているときはこういう読者サービスたっぷりのマニアックな読み物が楽しい。

 某月某日 若一光司『化石のたのしみ』。『海に夜を重ねて』という心優しい小説の作者の化石に関する案内書兼私小説というところか。変に専門的方面やマニアックな偏向に走らず、淡々と化石に対する愛情あふれたガイドブックになっているところがいい。いつの日か自分もハンマーとタガネを持って山歩きをしてみたい気持ちにさせられた。

 某月某日 『インパクション』五四号。「テロ・キャンペーン下のソウル五輪」という特集を組んでいる。キリスト教牧師の桑原重夫氏は、五輪を通じて韓国政府が経済的矛盾を糊塗し民衆に「先進祖国の到来」の幻想をふりまこうとしていること、テロ防止という名目で日韓米軍事体制の完成・強化が進められようとしていることを鋭く指摘している。また、天野恵一氏はオリンピックがIOCの動向を含め極めてスポーツの中立性を振り撒いているが、実質的には「世界の平和と友好などといった美しき大義の下に国威発揚の大デモンストレーションを展開し、各国の民衆の国家帰属意識を強化するスポーツ大会」であることを暴露するとともに、ナチスが行った国威発揚のセレモニーである聖火リレーなどの装置をそのまま受け継いでいることを厳しく指摘している。日本のマスコミの馬鹿騒ぎぶり、のうてんきぶりを見る時どうしょうもないと思わずにはいられない。
 知花昌一『焼きすてられた日の丸』。沖縄での国体の際、読谷村で押し付けられた日の丸の旗をひきずり降ろし燃やして捨てた知花さんの反戦平和の歩みを綴ったもの。感動するところ大なり。

 某月某日 椎名誠『新橋烏森口青春篇』。業界紙記者時代のシーナと彼をめぐる人々との出会いとほのかな恋を描いた私小説。屈折しているようで、実は極めておおらかな人間群像がよく描けていると思った。
 中森明夫『東京トンガリキッズ』。東京という大きな劇場の中で、懸命に生きている現在の若者たちの風俗をナイーブな感性でとらえている。おもしろい。

 某月某日 大塚英志『システムと儀式』。マンガ論を通じた現代社会論。切れ味鋭い。特に「文学者の教養としての〈まんが〉」。「小説を書く者たちの基礎的な教養に〈まんが〉が存在している」ことを、梅田香子『勝利投手』、鷺沢萌『川べりの道』を俎上に論証してみせている。大塚は「〈文学〉は〈まんが〉から〈文学的なるもの〉を奪回しなくては〈文学〉たり得ないのだ」と結論づけている。文学の世界は大塚が指摘するほど狭くはないが、傾聴に値する意見である。

 某月某日 吉本ばなな『うたかた/サンクチュアリ』を読む。非常に重いテーマを現代っ子らしい軽さで描いているところに力量ただならぬものを感じた。『うたかた』の主人公の名前が「鳥海人魚」というのもなかなかのメタファーであって良い。第一作の『キッチン』は異色の設定に面白みがあったが、今回は恋愛という、いわば古典的テーマを見事に勘どころをつかまえている。
 高橋源一郎『優雅で感傷的な日本野球』。第一回三島由紀夫賞受賞作品。言葉に憑かれた作者のストーリーより個々のエピソードを徹底的に展開してしまうところが尋常ではない。ただ、そのようなラディカルな遊びがいつまで続くものか、という印象を覚えた。

 某月某日 津田孝『民主主義文学とはなにか』。結局硬直したスターリニズム芸術論の破産を自己暴露してしまっているだけのようだ。共産党員の活動ぶりが描かれておらねばならず、それが社会主義協会員だったら論争になってしまうところが、いかにも政治的だ。津田の論敵も同じ穴のムジナなのだろうが、宮本顕治にべったりしていない分だけ自由である半面、いったん自由になってしまったら党から追い出されてしまうところが代々木的だわい。
 小田晋『うつ病なんかこわくない!』。つまらない。すでに森田療法が獲得している地平に届かないレベルで俗論を展開しているだけ。ちょっと危ない。

 某月某日 おまたせしました。『ノルウェイの森』を一年遅れでやっと読む。奥付を見ると第六刷とある。今店頭に並んでいるのは二十数刷くらいになっているだろうか。それにしてもよく売れたもんだな村上春樹。親友、そして女友達がなんだかよくわからないが次々と死んで行く。ただそれだけの恋愛小説である。村上春樹の小説の特徴は一見リリカルに感じられるものの、その実夜郎自大そのものの表現が、《現在》の空虚感=気分にフィットしているという同時代性でしかない。

》ぼくは一九六〇年代の半ばに大学に入り、一年余計にいて、一九七〇年の春卒業し、約十年の後に、この有明海にやってきた。十年近く造船所にいたけれどその間一隻の船も設計しなかったし、一隻の現場担当もしなかった。やみくもに走り続けた挙句、気がついたら元の場所に戻っているだけだった。

》「エロ本も爆発しなきゃ、ただの紙くずよ」
 たいして哀しくない冗談が実感をもって語られ、街全体が冗談で窒息しそうだった。躯の大きい順から機動隊に入り、知能指数の高い順からデモに加わった。躯も大きくなく、知能指数の低い人たちはあまり冗談を言わなくなった。鉄パイプ爆弾が出現するのは、それから二年もあとのことだった。

》我々は安いウィスキーを飲んだり、あまりパッとしないセックスをしたり、結論のない話をしたり、本を貸したり借りたりして毎日を送っていた。そしてあの不器用な一九六〇年代もかたかたという軋んだ音を立てながらまさに幕を閉じようとしていた。

》夏休みのあいだに大学に機動隊の出動を要請し、機動隊はバリケードを叩きつぶし、中に籠っていた学生を全員逮捕した。その当時はどこの大学でも同じようなことをやっていたし、特に珍しい出来事ではなかった。大学は解体なんてしなかった。大学には大量の資本が投下されているし、そんなものが学生が暴れたくらいで「はい、そうですか」とおとなしく解体されるわけがないのだ。そして大学をバリケード封鎖した連中も本当に大学を解体したいなんて思っていたわけではなかった。

 これらの引用はいうまでもなく一人の作者のものではない。しかし、実に文体からにじみでている感性がよく似ている。村上の作品は引用の三番目(『羊をめぐる冒険』)と四番目(『ノルウェイの森』)。一番目は青山健二の『囚人のうた』、二番目は伊達一行『スクラップ・ストーリー』からの引用である。ここには全共闘世代の全共闘へのシニカルな視線と青春特有の空漠感が淡々とした語り口の中に表現されている。『風の歌を聴け』から村上春樹が書いているテーマはほとんど変わっていない。そして私はその村上の作品の中に潜む、ある悪意を断固として批判したいと思う。このことは村上の作品が量的にどれほど読まれようと全く関係無く遂行されねばならないものと明言しておく。

 某月某日 どこの古本屋で買ったのかわからないが野坂昭如『卑怯者の思想』が出てきたので読む。六〇年代後半の学生運動高揚期に『心情三派』といわれた野坂が六九年の情況を書き綴ったもの。別段彼が優れた観察者とは思わぬが次のような結語の中に、彼の誠実さを感じたといってよいだろう。

 全共闘運動にもさまざまな推移があって、書いているぼく自身、いろんな意味で変化した。この一年、はつきりいえることは、国家が力によって、世間を押さえつけようと、その当然の意志をあらわにしたことであろう。あいもかわらぬ選挙の茶番劇にほとほと愛想つかせた世間を、してやったりとほくそ笑みつつ、一方ではじわじわ若者の圧殺にかかって、苦しまぎれの火炎ビン逆にとり、二重三重のたがをはめ、六九年という年の重苦しさは、もしぼくがこの先長らえるものなら、ちょうど昭和十年代初頭を思い起こす、今の老人のような表情でかえりみるであろう。ぼく自身なにをしたかといわれれば、何もしていない。ぼくもまた若者を追いつめたその一端につらなっていると認めざるを得ないのだ。

 某月某日 橋本治『ぼくたちの近代史』。全共闘をまくらにどうやら女性達を啓蒙しようという講演を本にしたらしい。橋本のネチっこい全共闘論はどうでもいい部類に属する。問題はその後だな。「今や、『後家の時代』なんですよね。父親であるようなものは、天皇を別にして、みんな死んじゃったのね。死んじゃったもんだから、母親というのは、後家という形をとるしかないわけ」「自分であることは全部自分の中に留めておいて、公的な自分を、ずーっと他人の為に演じ続けるっていうのが近代自我だからさ、今上天皇っていうのは、多分、唯一、達成された近代自我の例外的存在でしょうね。/それがあるもんだからさ、遂に父親というものがいらなくなっちゃった世の中の、最後の幕引きとして、天皇は父親として存在してるのね」。橋本君よ冗談は顔だけにしてちようだいね。政治論としても勿論だが、社会的・文学的比喩としても全く的外れだ。それともフェミニストを気取って聴衆の女性達に秋波を送っているのかい。天皇が父親だなんていってくれるじゃないかと思う俵万智だぜ。
 もうひとつ言っておこうか。『世の中がいくらぎゅっと縮まっても、原っぱがありさえすれば、そこにいさえすれば、人間って、なんとかなるようなものっていうのは作れるかもしれないと思うのね」。天皇をだしに反動フェミニストを気取ったこの男は、今度は戦後民主主義を擬制してみせたというわけだ。ざけんなよ。後ろむきで未来を語るまい。
 藤堂志津子『マドンナのごとく』。北海道新聞文学賞受賞、直木賞候補作。私は唐沢と郁馬ほどではないが、熊谷女史のファンである。熊谷=藤堂さんは大変理知的であり同時にセクシーな美人であることは、カバーの写真から改めて納得するところである。彼女は「黎」にいくつかの作品を発表しているが、私の印象では、そちらのほうが優れた作品だったと思う。「キョードー・ベンジョ」で直木賞を取らなくて良かったと喜んでいます。
 景山民夫の短編集『休暇の土地』を読む。この日三冊目。アメリカ放浪記の『転がる石のように』もよかったがこちらもまずまず。

》「国立公園の監視員になればよかったなって思うときもあるんだ。だけど、自分がライフルを背負ってクーガーを密猟している連中を追いかけまわしている夢を見たあと、いつも必らずこう気が付くのさ。俺は年に四週間だけ砂漠に入るから、今でも砂漠が好きでいられるんだとね」
「そいつは理解できるような気がするな」と、空になったバドワイザーの瓶に指を突込んでブラブラさせながら僕は言った。

 この辺の会話はキザだが、いい。私もまた「休暇の土地」ならぬ時間を持ちたいものだ。

 某月某日 半村良『小説 浅草案内』。東京で勤めていた時、2年ほど浅草で暮らしていた。その街の持つ魅力は分かっているようで本当は今も埋もれたところが多いような気がする。懐かしさに引かれてこの小説を読んだ。一種の人情話のエピソード集で半村の浅草への思いがよく伝わってくる。惜しむらくは、大作家に言うのもなんだが文章が今一つ、の感がある。彼は同じ時期、私と反対に北海道で暮らしていたのだが、そこのところの総括が興味深く語られているので書きとめておく。
 
》三年ほど北海道へ行った。死ぬまであっちにいてもいいと思ってたんだが、地方選挙に巻きこまれた。俺なんざ自分の一票しか出せないのに、妙な電話がガンガンかかってきやがる。よそもんが余分なことをすると、家に火をつけるまで言われちゃってさ。別にこわくはなかったが、住むのが億劫になっちゃ、もうおしまいだ。勝手にしやがれってもんで尻に帆をかけた。                           (同書所収「つくしんぼ」)

 人間は自分を美しく語りがちだが、さてどうだろう。 最近、恐竜が見直されている。米国のジャーナリストのジョン・ノーブル・ウィルフォード『恐竜の謎』はそうしたブームの背景を教えてくれる分厚いながら楽しい本である。興味深いことはたくさんありすぎるが、生物は大量絶滅を繰り返してきたが、恐竜のそれが最も象徴的であること、その絶滅の原因は超新星爆発説や彗星衝突説といういかにもスケールの大きなものから「ノアの箱船が満員で乗れなかった」という聖書を踏まえた珍説や精神状態の異常・便秘説まで数え切れないほどあるが結局分かっていないことなどだ。もし恐竜が絶滅しなければ一部は「ホモ・サピエンス以上の知能をもつ機知に富んだ高等生物に進化した可能性」があるそうだ。特にステノニコサウルスはディノサウロイドという皮膚はうろこで覆われた三本指の言語を持った直立生物になっていたそうで、ごていねいにもグラスファイバーの立体模型があるとか。絶滅しなければ森の中をちょろちょろしていた、わがホモ・サピエンスの祖先にとっては大変なライバルになるところだったろう。
 ついでに大陸書房の飯島君からもらったダーウィンの先駆者たちのことを書いた論文集『進化の胎動』を読んでみる。モーペルテュイなどの人物が独自のプレ進化論を展開していたことだけはよく分かったが、門外漢にはいささか難しかった。

 某月某日 塩見孝也獄中論文集の『封建社会主義と現代』。赤軍派議長だった塩見氏の獄中生活も戦前共産党幹部を凌ぐ十八年にも及んでいると思うと感慨大なり。氏の一向過渡期世界論は評価はともあれブントが世界同時革命戦略へ向かうひとつの里程標となったことは事実である。ところで、論文集の内容については必ずしも納得できるものではなかった。氏によれば現代日本社会は次のようになる。「日本の権力は単純化して本質を指摘すれば、米帝国主義とこれに従属する天皇制独占の権力といえる」それゆえ日本の革命は「(プロレタリアの社会主義革命のヘゲモニーのもとでの)反帝(反米帝)、反天皇制独占の民族民主主義革命であると規定できる」という。いきなり時代が半世紀ほど戻ったような印象を覚えるのは私だけだろうか。今は中共だって日共だってこんなことは言わないだろう。氏を襲っている困難はよくわかるが、どうしてこんなに現代社会の現実から遠く隔たった観念論に陥ってしまったのだろうか。

 某月某日 島田荘司『切り裂きジャック・百年の孤独』。久しぶりにミステリーを読む。一八八八年、世紀末のロンドンで起きた切り裂きジャック事件を元に、一九八八年ベルリンでも同じような切り裂き事件が起こったという物語。おどろおどろしさの割りにはトリックというか謎は簡単に解ける。その意味では島田作品としてはいささか物足りない。「この街の若者は無口で、決して政治のことを語ろうとしないが、実は多くの矛盾を感じている。彼らをその矛盾に導いたものは、単にこの場所に生まれ落ちたという偶然だけなのだ」。これはベルリンの若者の気持ちを代弁したものだが、位相をずらせば現代日本にも通じるわけであり、そこに作者の一種の怨念を感じたと言えば大袈裟であろうか。
 岳真也『風間』。純文学にして私小説!最近珍しいほどに静かな作品で、心が洗われる。

 某月某日 桐山襲の『亜熱帯の涙』。『パルチザン伝説』以来、日本の歴史の書かれざる、あるいは有り得べきもうひとつの物語を書き続けている著者の『聖なる夜 聖なる穴』に続く南島ものといえる。ひとつの島が生まれそして発展し属領化し最後は革命軍が決起するが倒されてしまうドラマを、歴史的時間を凝縮・無視する形で描いている。この創成と死は一見永劫回帰の運命のように見えるが、その運命を破る主体の存在を確信しているところに作者の真骨頂がある。ただ志はよくわかったが、作品の出来としてはいささか大味の感じがする。しかし、いつもながらイメージは鮮烈である。特に、尾牴骨をつなぎあわせた結合胎児が作者の批判の意志として造形されている。オビに川村湊の書評が付記されていたが、まさしくこの結合胎児は南島と日本を結ぶ壮大な比喩でもある。著者のさらなる研鑽を期待して次回作を待ちたい。
川村湊『音は幻』。幸田露伴の言語論をまくらにして明治時代の言葉と観念の問題を追究したもの。おもしろくもありおもしろくもなし、というと川村君に悪いが、もうひとつピンとこないというかそんな感じがした。

 某月某日 神谷忠孝『日本のダダ』。余り知られていない日本のダダイズム運動を当時の資料や人間関係などをしっかりとおさえながらまとめた研究書。個人的にはやや学者の文章で、批評の迫力を欠くうらみがあるように思った。
 竹田青嗣『世界という背理』。小林秀雄と吉本隆明という批評の巨人を相手に言葉の持つ困難を丹念にたどりながら現代の課題を読み解こうとしている。いつもながら竹田の還元主義的手法はやや、辟易するところがあるが、川村湊の『音は幻』と併せるとき、彼らがソシュールを起点とした現代言語=思想を拒否し、吉本氏らの方法を再確認しつつ歩みだそうとしていることがよく分かる。続けざまに竹田の『現代思想の冒険』も再読する。竹田は現象学を重視しつつ西洋思想を単純化していくのだが、彼の自信たっぷりの読み方はいかにも明快すぎるところがあって結果的にはちょっと違うような気がしたところが少なくない。

 某月某日 垣内義亨の『体に悪いことしてる人の健康術』。「徹夜仕事で睡眠不足の時は、一〇分間でも居眠りをする」「朝食をとれない人でも、牛乳一本は飲むべきだ」など、当たり前といえば当たり前の養生訓。考えてみれば我々は体にいいことをしているわけがないわけで、この種の生活の知恵が必要なのかもしれない。

 某月某日 モーリス・ブランショの『明かしえぬ共同体』。バタイユ論。難しい。多分こちらにバタイユやブランショの知識が不足しすぎている。ただ、ブランショが共同体の問題を対幻想の領域から共産主義の課題にまで対象化しようとしていたことだけがよく分かる。
 気分を変えて筒井康隆『薬菜飯店』。相も変わらずハチャメチャ。特に標題作の抱腹絶倒のパワーは凄い。グルメブームの表層性を徹底的に笑いのめしてみせているようだ。巻末には俵万智ちゃんの『サラダ記念日』を超えた『カラダ記念日』が載っている。万智ちゃんは単に若い女性たる自分の気持ちをあたかもニューミュージック風に歌ってみせただけだが、筒井先生は完全にやっちゃんになって本歌どりしている。筒井先生の勝ちです。


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