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少女論のための練習問題 ―あるいは前段階批評の試み

1 読書ノートから
  本稿は一九八八年に書かれ同年刊行された「少女論」(青弓社)準備用レジュメだ。初出は「詩と創作 黎」第48号=1988年夏号)

 1988年4月某日 北海道に帰る転勤準備の真っ最中。青弓社の矢野君からの手紙が舞い込む。『迷宮の少女たち』というテーマで少女論をやってみようという企画への誘い。身辺整理が忙しくて、家の中の本は殆ど梱包してしまっている。関心はあるが、手も足もでない。

 4月某日 秋葉原でカセットCDプレーヤーを買う。帰り道で上野のレコード店に立ち寄ったら「制服のアイドルたち」というアンソロジーを買ってしまった。斉藤由貴から南野陽子、浅香唯、おニャン子クラブ、伊藤麻衣子、工藤夕貴、岩崎良美、松田聖子ら十二人が女学生の心をそれぞれに歌ったもの。歌として聞けるのは斉藤由貴の『卒業』くらい。彼女のひたむきな感じが少女らしさを良く出している。ほかは今一つという印象。

 4月某日 東京もそろそろ最後なので、いくつかの書店を回る。本はたくさん出ているのに、欲しいと思う本はなかなか見当たらない。逆にどうでもいい本ばかりが書棚を占拠している。社会科学書ならお任せ、ルポルタージュならなんでもあります、とかテーマ別に本屋も専門化ができないものか。文学関係も少し古い小説の類いはどこにもない。特に批評は悲惨だ。青弓社の企画が気になっているらしく、ここ数年の少女論ブームの火付け役となった本田和子の『異文化としての子ども』『少女浮遊』のほか、ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』、十代の少女たちの声を集めた『少女宣言』、干刈あがた『黄色い髪』、山根一眞『変体少女文字の研究』などを買う。

 4月某日 どたばたと札幌へ。三年半ぶりに見る町には、やはり新しい建物が目立つ。東京の雑然さはないぶんだけ、なんとなく物足りない。

 5月某日 仕事にも少し慣れてきたので、ようやく本を読みたい気分になる。「少女論」を中心に1カ月足らずで何冊くらい読めるか。自分なりの少女論までたどりつくことができるか自信がない。そこで私の中にある少女像を思い浮かべてみることにした。となれば、まず吉本隆明。その前になぜか中野重治。

 5月某日 本棚から文学全集の『中野重治』、岩波文庫の『中野重治詩集』を出す。私は中野重治の中にあるどうしようもない正当性への盲信を好まない。それは平野謙らと行われた政治と文学論争における、彼の官僚的恫喝に最も醜態をさらけだしている。この種の男が権力を握った時、一般大衆を弾圧することは明白である。政治とは理念であるとともに人間性でもあるのだ。中野の中には多分、劣等感のようなものがあった。それが文学においては優れた表現へのバネになったが、政治においては無意識のスターリニズムとなった。中野の『歌のわかれ』は彼が慣れ親しんできた短歌的世界と別れ、凶暴なものへ立ち向かって行こうと決意する一種の政治小説なのだが、その中にある「あかるい娘ら」という詩は、少女に対する一つのイメージと彼の劣等感を良く表していて私の好きな詩として、心の中に残っているのだ。

わたしの心はかなしいのに
ひろい運動場には白い線がひかれ
あかるい娘たちがとびはねている
わたしの心はかなしいのに
娘たちはみなふっくらと肥えていて
手足の色は
白くあるいはあわあわしい栗色をしている
そのきゃしゃな踵なぞは
ちょうど鹿のようだ

 構造主義流の文学分析方法によれば、ひとつの作品の中には同じような構造のテーマが入子型になっているのを見いだすことができる。この「詩」は小説のメインテーマである文学から政治へ簡単に飛躍できない作者の姿が、ここでは白い線と少女の形で語られている。それにしても鬱々とした作者にとって、少女たちは余りにも明るく健康的に見えるという感情は、私にも他人事ではないもので、学生時代にこの小説を読んで以来、心の中に残っているというわけだ。
 この種の感性は吉本隆明も同様である。『吉本隆明全著作集1 定本詩集』は多分、吉本の著作としてはいつまでも残るものの代表であろう。近年、大和書房という本屋が無節操な全集を出しているが、勁草書房の全著作集に遠く及ばないのは、はっきりしている。特にこの定本詩集はすごい。私が一冊の本しか持つことを許されないなら、必ずやこの本を友とするであろうと思う。そこには一切の秩序から疎外された人間の、そしてそれでもなお愛し憎み断固として生きようとする魂が刻印されている。重ねて言うが、凄い。ちなみに広瀬隆の『危険な話』はただただ怖い。

えんじゅの並木路で 背をおさえつける
秋の陽なかで
少女はいつわたしとゆき遇うか
わたしには彼女たちがみえるのに 彼女たちには
きつとわたしがみえない
すべての明るいものは盲目とおなじに
世界をみることができない

 これは「少女」と題された詩の一節である。ここに私どもは中野重治の「あかるい娘ら」の変奏曲を見るであろう。この時代まで左翼はやはりネクラの代表であり、そのぶんだけ少女を明るいもの、無知なもの(無垢なもの)ととらえてしまっている。だが、それは一面的であることは明らかなのだが……。もっとも少女を明るい存在と見る発想は左翼ばかりではない。石坂洋次郎の『青い山脈』の寺沢新子はその典型だろう。例によって新潮社版文学全集『石坂洋次郎集』を読み直す。『草を刈る娘』のモヨ子や『霧の中の少女』の妙子は同じような系譜に属する。『若い人』の江波恵子は。少女の一典型ではあろうが、デモーニッシュな感性は、単なる明るさとは違う病的なものがある。

 5月某日 少女を明るく健康的な存在と見るアンチテーゼとして高野悦子のことを思う。『二十歳の原点』シリーズ、真継伸彦『青春の遺書』、高沢皓司『生きいそぎの青春』。高野悦子は学生がラジカリズムを代表する最後の時代に遭遇しなかったとしても、何かの機会さえあれば生から死の世界へと越境したように思う。これは彼女が生きた時代を足蹴にしようというのではない。彼女の日記を読んでいると、全く突然なのだが、しかしそれがまるで自然のように「自殺」という言葉がいたるところに出てくるのだ。高野悦子の死に教養人的に日本的近代が強いた強迫神経症を指摘する真継も、同時代人として最良のシンパシイを示した高沢も、その点でちょっと違うというか、思い入れが深すぎる。もちろん、私も少女論の文脈を離れたなら彼らのように書くであろうと思うが。

 5月某日 干刈あがた『黄色い髪』。登校拒否の娘と母親の物語。結末はいささか楽観的すぎる。フランス文学思想を研究している友人の千葉君に言わせると「干刈あがたって、歌って踊ってという党派と似ている」というが、この楽観的なところがそんな印象を与えるのかもしれない。この小説の中で最もスピード感のあるのは162から165頁まで、主人公の中学生・夏実がセーラー服を脱ぎながら「てめえらムカつくんだよ」などと叫び、カセットデッキを聞く場面。流れてくるのは、お騒がせ人間のご存じ尾崎将司、じゃなかった中学生のヒーロー尾崎豊の『卒業』。音楽のほうの著作権がうるさいので引用は控えるが、この詩がいい。通俗的だろうが、断固いい。黄色い髪は反逆というよりも絶望への自らの意志表示である。

 5月某日 本田和子『異文化としての子ども』『少女浮遊』。子供を文化人類学と構造主義、記号論を使って解析している。大変、優れたもので、少女を「ひらひら」という浮遊感覚でとらえた部分は面白い。一方、子供を異文化として見る方法を強調する余りの踏みはずしも多いし、柄谷行人『日本近代文学の起源』のようなあざとい批評を信用しているところがだめなところだ。
 川本三郎の『感覚の変容』。相変わらず鋭い指摘が目立つが、なんとなく迫力がない。「微熱少女の予感」「消えゆく少女たち」が彼の少女論である。本田和子に随分共鳴しているようだ。《純粋少女》を求めているような言い方には違和感を覚える。結局、この人はロマン派なのだと思う。
 小浜逸郎『方法としての子ども』。この人は『学校の現象学のために』でも子供社会の構造を見事に分析してみせたが、この本でも丁寧に現象学を展開している。特に優れているというか、筆が冴えるのは前著と同様、他者批判である。本田和子や柄谷行人らの《知》のスタイルのいかがわしさを徹底的に剔抉している。ただ、エロス論が書かれているほどには今一つわかりにくい。

 5月某日 本田和子が敬愛してやまない吉屋信子の作品集を澄川図書館で借りる。『花物語』の美文調。決して悪くない。なんだか、遠い異国の空の下にいるに違いないお姉さまのことを思い出して、私も乙女のような気持ちでございます。あっ、窓の向こうを流れ星が―。なんちゃって吉屋先生御免なさい。でも、こんな感じどこかでみたことあるな。

 5月某日 地下街のリーブルなにわ店で、佐々木丸美『雪の断章』『影の姉妹』『沙霧秘話』を買う。
 吉屋信子の小説を読んでいて、思い浮かべたのが実は佐々木丸美の作品だったのだ。二年ほど前に相米慎二監督、斉藤由貴主演で『雪の断章―情熱―』という映画を見たのだが、孤児、養女、いじめ、ヒーローの登場という設定が吉屋の世界にとても良く似ているのだ。それで改めて小説を読んでみたという次第。映画批評家として高名な同僚の関君に新聞の切り抜きを探してもらう。小説と映画のどちらが優れているかは議論の別れるところだが、小説もまた言われるほどには悪くないと思う。なにより作者の作品にかけた「情熱」が伝わってきて感動的ですらある。ストーリーテラーの小説としては面白く読めた。併せて『影の姉妹』『沙霧秘話』を読んだが、こちらは擬古典的で一層、吉屋信子の世界に近い。
 
 少女の面立ちは日毎に変化する。秋の空の移りにも似て戸惑うほどに。今朝は白百合が似合うかと思えば夕べには黄菊を胸に。昨日は笑いころげていたのに今日は何を想う。花も入り陽も夕風も、すべては少女を飾って過ぎていく。

 『影の姉妹』の一節だが、星菫派の現代版というところか。隠れ里を舞台にした設定に、私の中に古典のことが思い浮かぶ。

 5月某日 角川文庫から折口信夫の『日本文学の発生序説』を引っ張り出す。その昔、国文学の専攻課程に身を置いたことがあるが、自慢ではないが全く勉強していない。お陰で現在苦労しているのだが、因果応報。だれのせいでもない。折口は柳田国男と交差しつつも、日本文学の物語の要素として貴種流離を指摘した。この貴種流離の発想は古代だけに限らず、現代にも通じている。その典型が吉屋信子であり、現在の佐々木丸美の作品であるという思いを強くする。久し振りに折口の本なんか読んで学問と情熱を思い知らされた。それに比べ全共闘以降の学者の根性のないこと。東京大学のバカ騒ぎのアカデミズムを気取った阿呆どもは学問には詩人の魂が必要なことを故意に排除している。
 貴種流離論は折口のもうひとつの造語である《マレビト》と裏表の関係にある。知人の山崎岩男君が『がんばれ小錦』という《マレビト論》を、青弓社から出している。引用が多すぎるのが気になるが、そのぶんだけ小錦に関する報道のされ方がよくわかる。
 折口信夫は近年、現代思想の文脈の中で新たな読み直しがされている。折口の異端?の弟子筋にあたる国学院OBコンビ・佐々木重治郎プラス村井紀の『折口信夫のトポロジー』は私のような門外漢にも刺激的だ。その心を述べれば「ここにはドゥルーズもいればニーチェもいる。ルイス・キャロルやスウェーデンボルグ(注・いうまでもありませんがテニスプレーヤーじゃありません)も見いだされざるを得なかった」(村井紀)というスケールのでっかいものだ。

 5月某日 西本鶏介『文学のなかの子ども』。近代の作家50人が小説の中で、子供たちをどう描いてきたかをコンパクトにまとめたもの。ヒューマニストらしい著者の目が作品に向けられているのはよくわかったが、こちらの問題意識とクロスするところ少なし。たとえば冒頭には樋口一葉の『たけくらべ』が置かれているが、「未熟な愛」「大人になるための試練」「子どもの挑戦」などのタイトルが示すように「思春期のほのかな性のめざめを描いたものである」というような要約ではちょっと困る。ここはやはり主人公・美登利の、それこそトポロジーに鋭く迫ってくれる指摘があると、少女論としても時代論としても空間論としても、示唆されるところ大なるのだが、と残念に思う。
 森崇『青春期内科診療ノート』。山中康裕『少年期の心』。どちらも子供たちをむしばむ精神の病に医者として、どう取り組んだかの記録。カウンセリングを受けているようで、いかにも対症療法的で参考にならず。

 5月某日 岩波文庫『竹取物語』。いうまでもなく、かぐや姫の物語。折口信夫の貴種流離とマレビト、特に少女存在の共同幻想性を改めて確認する思い。それにしても竹取の老人にしては、その名前が「讃岐造麿(さぬきのみやつこまろ)」というのは、ずいぶんと大仰だわい。かぐや姫は天上で罪を犯して、地球に流されてきたにもかかわらず、余り反省の色もなく、わがままだ。これはやっぱり美少女の特権かしら、と昨今の芸能界のことなどと併せて感嘆。
 吉本隆明『言語にとって美とはなにか』。角川文庫版で読み直す。吉本は「第X章 構成論」で折口の貴種流離論や『竹取物語』について触れている。大変ていねいで、同時に大胆な読み込みが多いのに改めて驚く。それにしても「『竹取物語』のライト・モチーフは、王権にたいする神権の優位性を、かなり原始的な形でつらぬいている点にあるということができる」という断定の仕方はいかにも吉本さんらしい。ただ、この本のベースにあるのは『自立の思想的拠点』に示された、土俗と尖端を結ぶ自立言語思想の構築ということであっただけに、いまや『マス・イメージ論』『ハイ・イメージ論』で天上の視点を手に入れ革命の終焉を宣言した吉本さんが、この初期吉本言語論をどう思っているか関心大。もっとも吉本さん本人は「オレはちっとも変わっちゃいねえよ」と言うのはわかっているが。

 5月某日 山根一眞『変体少女文字の研究』。いわゆるマンガ文字の発生を丹念に追究したものだ。「変体少女文字に象徴される新しい文化は、弱々しく幼稚な社会を到来させる芽を孕んでいる。社会がぐにゃぐにゃしていく傾向は、いっそう強まるだろう。コミュニケーション・コスメティックスという行動原理は、要するに新しい処世術であり、角ばった楷書型の男文化の喪失は、当分進むに違いない。/このままいけば、二一世紀の日本人は、誰もが『かわいい』の価値観をもち、誰もが変体少女文字を書いている可能性はきわめて高いと、私は考えている」という結論は疑問だ。
 学生たちは長くマル戦文字に代表される独特の字体で立て看やガリビラを書いてきた。この表記は学生運動が低調といわれる現在でも健在である。少女たちは学生たちと同様自らの書体を持ち始めたことはひとつのエポックであり否定すべきなにものもない。

 5月某日 先日、東京から弓立社の宮下和夫氏が訪ねてこられた。宮下さんはいうまでもなく吉本隆明の講演あるところテープ片手に押し掛け、徳間書店時代に名著『自立の思想的拠点』などを作った名編集者だ。現在は吉本さん以上に軟派路線に走り、女子高生ものやテレクラものを手掛けている。個人的には、ああいう方向には疑問だが、本人が乗り気なのだからしょうがないと思う。
 森伸之『日本全国たのしい制服教室』。宮下さんから送っていただいた本だが、相変わらずイラストの女の子たちがカワユイ。北海道からもいくつかの学校の制服が掲載されている。カラー頁の札幌聖心女子学院高等学校の絵が一番いいが、私は不幸にしてその学校の生徒及び制服がそんなにかわいいかどうか見たことがない。制服はどう考えても主体に対しては抑圧の表徴であり、他者に対しては差別化を行うものである。ところが、森君の手にかかると、制服とは健康なエロスを実現するものになってしまうのだから妙だ。

 5月某日 少女論の古典ともいうべき唐十郎の『戯曲少女仮面』併せて『唐十郎血風録』『魔都の群袋』を読む。新宿騒乱男がそこには健在であり、なんとも懐かしい。戯曲からは母性に対する一種の敵意にも似た美学を感じる。少女の肉体を成長を拒むガラスに変えてしまうという『少女都市』のイメージはかなり強烈だし、なんだか想像するだけで痛々しくなってくる。
 稲垣足穂『美少女論』。「男性には道徳、女性には身だしなみ! これこそ、どこから突っこまれてもゆがまないところの、新世紀の美男美女の道である」。どうだ文句があるかというところだろうか。さすがは稲垣大先生の至言であるが、道にはずれた人間が多いこのご時勢には、ちとアナクロであろう。

 5月某日 上野千鶴子『《私》探しゲーム』。相変わらず鋭い舌鋒と言いたいところだが、全く上野千鶴子は食えない女だ。宗教は阿片であるといったマルキストさながらに、空想は現実逃避だと決め付け、吉屋信子らの「少女小説」を糾弾してやまないのだ。だが、状況論的に言えば、宗教的な「信」が変革のラディカリズムであることは歴史のよく教えるところであり、空想的な世界によって現実の苛酷さに対する精神のバランスを取ることは決して不自然ではない。同時に「少女小説」は折口信夫や『竹取物語』『源氏物語』を持ち出すまでもなく私達の社会の精神の底流を貫いてきたものである。批判すべきはそうした意識の後進性、即ち「意識としてのアジア」の超克であろう。
 四方田犬彦『もうひとりの天使』。楳図かずおの「わたしは真悟」を論じた「成熟と喪失」が秀逸。「『私は真悟』が問うているのは、単刀直入にいって、子供はいつ親となることができるのか、という問いであり、さらに断言すれば、子供であり続けつつも別の子供の親であるという矛盾を、人間はどのように背負いつつ生き続けなければならないのか、という問いである」という視点は鋭い。彼は私達を含めた世代に於ける、中間文化(映画、漫画、音楽)に関するリードオフマンとして活躍していくことは間違いない。

 5月某日 吉本ばなな『キッチン』。吉本隆明の娘さんの小説だ。リュウメイさんがオカマになって、台所でばななさんの食事を作っていたんじゃないかと想像しながら読むと、とても面白い。いやみがなく良い。
 金塚貞文『オナニズムの仕掛け』。大変な本であるとだけ言っておこう。気分転換へ。
 吉永小百合『夢一途』。泣けた。父親の出来が悪くても子供は立派に育つの典型。少女時代の代表作『キューポラのある街』で浦山桐郎監督から「貧乏について、よく考えてごらん」といわれ、(貧乏ならよく知っているわ)と、心の中で叫ぶ場面は彼女の生き方がよく出ている。良くも悪くも彼女は、貧困と勤勉から出発した戦後民主主義を誠実に生きてきた女優であると思った。

 5月某日 中島みゆきのCD『中島みゆき』を聞きながら彼女の第二小説集『泣かないで・女歌』を読む。小説の出来としては東欧を旅した時の思い出を綴った『元気です』が一番だとは思うが、『泣かないで』というプロになる前の特訓のエピソードを綴った作品が本当の意味で面白い。彼女の孤独、渇望みたいなものが、良く伝わってくる。文章をうまいへただ、と言ってもしょうがない。悪文また楽しからずや。

 5月某日 とにもかくにも短い原稿を書き終え、青弓社に送る。採用されるかどうか。一番感じたことは少女たちを襲っている現代の危機感の深さである。表層をたとえば「お嬢様ブーム」や美少女礼讚が覆えば覆うほど、根底では少女たちの孤独は強まっている。彼女たちがどこへ行くのか、誰も答えを見出せないところにいる。
 基本的には教育が無力であり続けるだろうし、説得力を持つ子供論は望むべくもない。ハイパー・キャピタリズムはサクリファイスを求め続ける(野崎六助『空中ブランコに乗る子供たち』)と思えば、暗澹なり。


2・
少女論・情況雑感1994
■1
 メーンテーマは「愛」である。「なんである? アイデアル!」ではなく、本物の愛である。
 それにしても、メーンテーマというと、僕が思い浮かべるのは、やはり薬師丸ひろ子である。「野性の証明」で高倉健さんの腕の中で震えていたころも可愛かったが、「セーラー服と機関銃」の頃もよかった。
 つまり、美少女は文句なく、よいのである。
 《無意識》のうちににじみだす美しさが、一種の至高性を表現していた。声にも透明な法悦感があった。コルトレーンの名曲のタイトルを借りれば「至上の愛」が、かの美少女には存在しているのだ。
 ところが、先日のことだがフジTVを見ていたら「病院へ行こう」という映画に出ていた薬師丸ひろ子ちゃんは、悲惨だった。美少女時代のオーラはすっかり消えてしまい、そこにいるのは単なる、バランスを欠いた大人のような女でしかなかった。
 いかんな。
 いかんな。
 どうして美少女は大人になることに失敗するのか。
 実を言うと、私はもうひとりの角川系の美少女・原田知世ちゃんも好きだった。
 「時をかける少女」。
 筒井センセの原作も良かったけれど知世ちゃんも、本当に時間を超えてしまいそうな透き通った美しさがあった。
 「天国にいちばん近い島」でもそうだった。ところが、最近はなんだかなあ。
 カルシウムを取りすぎなのか、ちょっと骨が太くなっちゃったような。違うよなあ。
 美少女は《無意識》の中に、自己を実現しているのだが、その《無意識》はいつまでも守りきることはできない。
 答えは分かっている。時間こそが第一の難敵である。
 つまり、美少女たちはいつまでも立ち止まってはいられないのである。
 時間はまず肉体的な成熟として彼女たちを襲う。そして無意識の領域に世俗的な知識が場所を占めてしまう。
 成熟による肉感的な美しさは所詮、生殖し出産する性を分泌するだけで、聖なる美しさとは無縁である。
 そして、世俗的な知識は彼女たちに自己を計算することを教える。
 つまり、彼女たちは自分たちを商品として認識し、高く売ろうとしてしますのだ。

 《聖的》《逸脱》した存在である彼女たちは《性的》《体制内》的存在になってしまうのだ。
 美少女たちが美少女たちであり続けるためには、どうすればいいのか。
 結論。それは不可能である。
 時間を先送りするためには、《眠り》という方法があるだろう。
 周知のように、白雪姫を始め多くの物語は少女たちをひととき眠りの世界へ誘うことで、美少女であることをモラトリアム化してきた。だが、それは長続きしない。
 では、どうすればいいのか。
 竹取物語はかぐや姫を月の世界へと連れ戻してしまった。そうすることで、美しさは永遠に変わらないものとなった。
 だが、少し考えれば分かることだが、月とは明らかに《死》の世界の比喩である。
 つまり美少女は死ぬ以外にないのである。そうすれば、美少女は永遠である。
 
 ■2
 いかんな。いかんな。
 これはセクハラかな。
 今までのお話はあくまで、美少女フリークの夢物語。
 生き残っているのは美少女の残骸だなんて言っているつもりは毛頭ありません。

 閑話休題。
 夏休みにですが、新宿発松本行きの、あずさ号というJR列車でちょいと旅をしました。
 JRは民営化されてから、人民のことを考えてくれなくなりました。
 要するに、いかに効率よく、儲けられるか、というのが国鉄ならぬ私企業JRの発想です。
 だから、不採算部門はなるべく切り捨てられます。
 私は極めつけのビンボー人ですから、グリーン車なんか乗ったことがありません。
 指定席も何かの弾みでしか足を運べません。でも、世の中には私のようなビンボー人が結構多いのです。
 それなのにJRさんは、私たちのようなものにはなるべく列車に乗って欲しくないらしいのです。
 だから、自由席なんていうのは、ちょっとしたオマケとしてわずかに残されているだけなのですね。
 印象としては十両編成のうち三両位が自由席であとは指定席七両という計算です。
 ところが、乗客は自由席七に対して、指定席三という勘定です。ようするに、指定席は空いているのに、自由席は立錐の余地もないという情況なわけ。
 そういう自由席に限ってビンボー人の子だくさんというのか、子連れだの、身体機能の衰えたお年寄りだのが、見事に集結するわけですね。あたしたちは、そりゃ地獄って世界をJR様の商業主義のおかげで数時間にわたって味わえるわけざんす。
 そこでは、元気な人間が勝ちなわけ。
 要はにいちゃん、ねえちゃんが体力にものを言わせて数少ない座席を占拠しちゃうのにたいして、じいちゃんばあちゃん、子ずれかあさんってのは、座れないわけ。
 世の中には相互扶助の精神ってあるでしょ。アナキストの伝統の。
 ところが、にいちゃんねえちゃんはコーラだかジュースだか飲みながら騒いだり寝たり漫画を見たりしているわけ。体が弱そうな人がいたら席を譲ってあげればいいでしょ。でも、世の中には無関心。没関係なわけ。
 そうこうしていると、赤ん坊が泣き出すわけ。ワーンというのかウエーンというのか。
 まあそれは、自然現象かなと思うのだけれど、子供をかかえているおっかさんがすごいんだなあ。なぐるわ、叫ぶわ。
 要するに近くに他人がいることに関しては無関心なわけ。子供は《無意識》なのに対して、母親も《無意識》なわけ。
 それが意識的存在=他者を徹底的にいたぶっているのに気づかないわけ。
 じいさんばあさんは、通路だろうがなんだろうが構わず、新聞だとか布だとかを敷いて、リラックスしちゃうわけ。つまり、トイレに行くとか、降りるとか、車両を移動するとかという他人の権利を認めないわけ。
 さらにすごいのは座席の隙間だろうがなんだろうが、どんどん侵略してしまうわけ。
 他人なんてどうでもいいわけよ、そこでは。いかに自分がラクをできるかだけが問題なわけ。
 誰かが倒れて横になろうと、席を譲ってくれる人はいないのが普通なわけ。
 もちろん、のろすけの私は立ってました。疲れました。JRを恨みました。
 人民のエゴイズムを悲しみました。
 人間に対する愛はどこへいったんだ、って。
 すると、聞こえてきたんです。あの素晴らしい愛が。
 そこで、
 あの素晴らしい愛をもう一度。

■3
 赤とんぼの歌を歌った日は、もう忘れてしまいましたが、人類愛については、はっきりと覚えています。
 エゴイストだと思った人民たちは、話しているのです。
 「ルワンダの難民たちを救えないのか」と。
 「病気に苦しみかわいそうだ」と。
 「自衛隊の海外派遣は仕方ない」なんて。
 高尚なお話を聞かされているのは、満員列車の中で疲労困憊しておる私たちです。
 国外の難民の苦しみが目に入っても本当の目の前で疲れ切っている人間には気がつかないのですよ。
 席を譲り合うとか、少し詰めて座るとか。
 工夫すれば、JRの暴挙にもかかわらず、ちょこっとは快適になるはずなのに。
 そういう助け合いをしない人たちが、世界国家を論じボランティアについて語る姿。
 これを不条理と言わずに何を不条理といいましょうか。

 近親憎悪だとか、精神の遠近法だとか。まあ。いろいろ言うことはできるかもしれません。
 でも私たちは目の前の矛盾には目をつむり、天下国家を論じてウサを晴らしているところがあるような気がします。
 世界の不幸を論ずることは本当は私たちの不幸を忘れるためのイデオロギー装置のように思います。
 世界平和のために何ができるか、なんて言っている人に限って、身近な社会の《戦争》から私たちの目をそらそうとしている人であると思った方がいいと感じます。
 不条理の極めつけは戦争だ、といつか書いたことがあります。
 どうしてかと言うと、戦争は個人の意志と逆立してしまうからです。
 個人の善意とか反戦の心とか家族を思う愛とかが、結局は他の国家集団に属する個人を苦しめるからです。
 家族を守るために直接的な恨みも何もない同じ民衆を殺すのですから、戦争というものは不条理です。
 戦犯といわれる人たちの多くが個人的には立派な人であり、家族を思うよき父親であったとはよく聞かされた話です。
 でも、たぶんそれは戦争犯罪を架空話とするものではないでしょう。
 だから、今も私は反戦派です。

■4
 個人のレベルではルワンダの人が日本の人より特別に残虐だとか、不真面目だとか、そういうことはないと思います。
 でも、社会的レベルで見る限り、集団が集団を暴力的に駆逐し、個を抹殺し、生活を破壊することが平然と行われているのです。その点で、ルワンダに比べて日本というのは社会的にましだと思います。
 ルワンダの難民の姿を見ると心が痛みます。
 だからと言って、私たちはルワンダの難民を救援しなければならないのでしょうか。
 難民といえば、日本にも多くの難民がきています。
 ベトナムや中国からこれまでどれほどの人たちが日本に入国しようとしたでしょうか。
 それに対して日本政府と民衆は何をしましたか?
 不法入国として強制収容所に入れ本国に送還しています。
 逃げ出した中国人には自警団が山狩りをして捕獲しようと繰り出しました。
 中国に戻れば生命が危ないという政治的亡命者すら、強制送還しました。
 ボスニアの悲劇は終わったのでしょうか。
 クルド人の危険は去ったのでしょうか。
 ロシア各地の内戦と災害の被害者たちはどうなったのでしょうか。
 エチオピアを中心とした東アフリカの難民たちはもういなくなったとでもいうのでしょうか。
 そしてカンボジアは?キューバは?
 世界中には無数の不幸が存在しています。
 それなのに、ルワンダだけが格別に不幸だというのは違うような気がしています。
 そこには《意志》が働いていることは明らかです。
 つまり、ルワンダを注目させることによって、世界にある無数の不幸を忘れさせようとする意志です。
 そして、その不幸を救うという幻想によって自らの精神の平衡を保とうとする現実的不幸です。
 かつてベトナム戦争があり、世界各地で反戦運動が盛り上がりました。
 保守派の人たちにはそれが気にくわなかったようですが、
 ベトナム戦争というのは帝国主義とスターリニズムの支配という戦後世界の構造というものを象徴していた。
 その構造を《無意識》のうちに突破しようとする民衆の自発的内発的共同性を黙示していた。
 それは最終的には民族主義の枠の中の勝利という形で終息してしまうわけだけれど、その戦後世界を超える未知のものに世界中の多くの人たちは共感して、過激な反戦運動に走ったわけです。
 じゃあ、ルワンダの内戦は世界の構造を象徴しているか、というと勿論、象徴しています。
 ヤルタ・ポツダム体制=帝国主義とスターリニズムの対立と共存の崩壊によって、それまで封じ込められていた前近代の諸関係が矛盾として噴出するという現在の地域紛争の頻発を、明らかに象徴している。 
 しかし、それは多分、個別に「個体発生は系統発生を繰り返す」というふうにしか解決できない。
 それは近代が血を流すことで成立したことを、多かれ少なかれ反復せざるを得ないのです。
 そのことに、究極的な解決策などないのです。確かに共産主義という国家を死滅させ、民族の矛盾を止揚するのだという理想が存在していれば、それは解決策になったでしょう。
 しかし、共産主義を人類がまだうまく使いこなせないのだ、ということを今世紀の実験は証明してしまったのですからね。
 仕方ありません。
 だから、救援は常に情況の後を拭う対症療法としてしか成立しない。
 そういう情況で行われるルワンダ難民支援活動ってのは何なんでしょう。
 どこで、成立するかというと、世界史的なものではなく、明らかに恣意性の領域でしか成立しない。
 要するに、特別にルワンダに関心を持った人の自発性=恣意性に依拠した《愛》としてしか支援はありえない。
 ルワンダの救援活動はやりたい人がそれぞれにやればいいことなのです。
 それに国家権力を盾に軍隊を動員することは、戦争をシミュレートするものでしかない。
 自衛隊の中で自発的に、ルワンダ難民を支援したいと考えている人がいるなら、個人的に行けばいい。
 政府がそうしたボランティアの身分を保障してあげればいいのです。
 同じようにカンボジアに関心を持っている人はそうすればいいし、ユーゴスラビアやエチオピアに関心を持っている人はそうすればいいのです。
 世界の不幸に対して、みんな等価です。
 ただ、私がJR列車の中で感じたように、自分を安全地帯に置いてのブルジョア・クラブ的な善意にはなんの価値もないことだけは言っておきたい。
 人間の対象的活動に反作用がないことなんかありえない。

■ 5
 美少女好きの私は、常に彼女たちの発するオーラのような《無意識》のエロスに圧倒されてきました。
 だけれど、彼女たちが《意識》的存在になるときに、彼女らは決まってその輝きを失ってしまいがちです。
 《愛》もたぶんそうです。
 《愛》は意識的なものであるように見えて、本当は徹底的に無意識なものであるように思われます。
 《商品》として《意識》された《愛》は輝きを失っている以上に醜悪です。
 今、この国の政府が為そうとしている国際貢献とはそのようなもの以外ではありません。
 《意識》的でありながら、輝きを失わない《愛》は可能でしょうか。代償を求めず。破滅をもいとわぬ《愛》。
 ちなみに私は、安達佑実ちゃんにはあまり魅力を感じません。
 「同情するなら金をくれ」と言われては返す言葉もありません。
 かつての美少女たちも角川に代表される商業主義から生まれたことは否定できません。
 しかし、彼女らにはベトナムの民衆がそうであったように体制を突き抜けていく《無意識》の力がありました。
 今そうした存在のアイドルはいるのでしょうか。

         (文芸同人誌「詩と創作 黎」第48号、1988年夏季号所収))

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