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北海道文学を中心にした文学についての研究や批評、コラム、資料及び各種雑録を掲載しています

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「踊るシネマの世界」へ 
 なんというか、映画に嵌まっていた頃があり、雑文を書きまくっていた。

WEEKLY  TODAY'S CINEMA 1  2005~2006

【きょうの映画】★★
*1 「亡国のイージス」(阪本順治監督。真田広之。中井貴一。寺尾聰)。
 福井晴敏の原作の映画化。進むべき道を見失った国家に守るべき未来はあるのか。義憤にかられた自衛隊員たちと某国の工作員によって最新鋭のイージス艦「いそかぜ」は占拠されてしまう。しかも彼らは大量殺戮兵器「GUSOH」を積み、首都圏壊滅を狙っている。そのテロルを阻むべく一人の男が立ち上がる。「よく見ろ、日本人。これが戦争だ」と中井貴一扮する某国工作員ヨンファがはき出すように言う。そこに暗い怨念があって背筋に思いが残る。自衛隊の全面協力で作られた本作は一見、戦争を現実のものとして引き寄せるかのように見えるが、反戦映画でもある。反乱者たちの思想の表現が足りなかったり、人間模様も単調だったり、やや物足りないけれども…。同じ系統では「ローレライ」(樋口真嗣監督。福井晴敏原作。役所広司。妻夫木聡。柳葉敏郎。堤真一)があり、荒唐無稽な中に、戦争の悪夢のリアリティーを保持して示唆に富んでいる。

★☆
*2 「チーム・アメリカ ワールドポリス」(トレイ・パーカー監督・脚本、マット・ストーン製作・脚本、R−18)
 アニメ「サウスパーク 無修正映画版」のコンビが放つあやつり人形によるラジカル・パロディの世界。抱腹絶倒というべきか、毒に怒るか。サウスパークでは子どもたちに対して、地獄でうごめく悪魔とフセインが敵役だった。本編の主役は世界を守るためにテロ抑止のために過剰攻撃を任務としているチーム・アメリカ。敵役はテロリストとそれを操る某国の独裁者である。その手先はマイケル・ムーアとリベラル系の映画俳優たち。世界の警察を気取るアメリカを徹底的に茶化す一方で、反戦派(「パール・ハーバー」のジェリー・ブラッカイマー批判は思想より映画が駄作だから)をおもちゃにする。前作同様、ほとんど放送禁止の内容。ただ、作品としてはチープにならず、本物志向が光る。チームの先制攻撃でルーブル美術館は木っ端微塵、ピラミッドも瓦礫となる。専守防衛のカリカチュアだ。真面目な人は間違いなく怒るだろうが、満載のギャグに溜飲を下げる人もいるだろう。自由と平和のためには誰かが血を流せ、というスローガンが痛い。人は皆あやつり人形。世はなべて合わせ鏡なり。そんな哲学があるか怪しいけれど、表層的なようで深い。すべてを笑いたい楽天的な人に限定オススメである。

★★★☆
*3 「皇帝ペンギン」(リュック・ジャケ監督・脚本)
 ネイチャー・ドキュメントと言うと、近年は渡り鳥の旅を徹底的に追った「WATARIDORI」(ジャック・ペラン総監督)や海に生きものたちの姿を描いた「ディープ・ブルー」(アラステア・フォザーギル&アンディ・バイヤット共同監督・脚本)が大評判だった。本作はそれらを上回るヒットをフランスで記録したという。内容はずばりマイナス40度Cの南極に生きる皇帝ペンギンの親子の威厳と愛情あふれる物語だ。営巣地に向けての過酷な長旅、生まれた子供ペンギンのいとおしさ。ジャケ監督はたった3人のスタッフと8880時間をかけ、皇帝ペンギンの気高き姿に迫ったという。脱帽だ。ラスト。子ペンギンは空からの襲撃に耐え、海の中へ。うれしくなる感動シーンである。

★★★★
【きょうのDVD】
*4 「バニシング・ポイント」(リチャード・C・サラフィアン監督。バリー・ニューマン。クリーボン・リトル)
 1971年アメリカ。車の運搬をしている男コワルスキがデンバーからサンフランシスコまで15時間で走りきることになった。当然ながら、警察の制止に遭うが、もうだれも止められない。ラジオDJのスーパーソウルら共鳴する人々の声を背に一人疾走する。コワルスキにはベトナム戦争の負傷兵としての陰や恋人の喪失、警官の不正への怒りなどがある。だが、そんなことは関係なく、ひたすら走る。その規範を逸脱するスピード感がビビッドに伝わってくる。
 この映画を最初に見たのは1972年である。コワルスキはしょせん勝てない戦いを続けているのだが、燃え尽きる(バニシング・ポイント=消失点)まで挑戦する姿(車はチャレンジャーだ)に心震わせられた。あらためて見ると、アメリカにもまだ悪路が多かったのに驚く。また、ヒッピームーブメントとコミューンと宗教の接近も描かれ、その後のカルト集団出現を予感もさせている。砂漠を疾走するシーンの俯瞰の構図は男の孤独も浮かび上がらせる。70年代を描いたカーチェイス映画の傑作であろう。

★★★★
*5 「ヒトラー〜最後の12日間〜」(オリヴァー・ヒルシュビーゲル監督。ブルーノ・ガンツ。アレクサンドラ・マリア・ララ。コリンナ・ハルフォーフ)
 従来、独裁者として実体から遠ざけられてきたヒトラーをドイツ映画が初めて人間像に踏み込んだ。歴史家ヨアヒム・フェストの「ダウンフォール」と、ヒトラーの秘書トラウドゥル・ユンゲの回想録「最後の時間まで」に基づいての作品だそうだ。監督は模擬刑務所での心理実験を素材に人間の業の深さを描いた「es(エス)」を手がけた。組織と環境による人間の変化をテーマにしていただけに、本作は適任というべきか。
 ドイツがこの映画をつくった意味は大きい。要するに狂気の人、変人、戦争犯罪者として喧伝されているヒトラーの人間像に迫ったからだ。タブーを破ったのだ。日本人にこの作業をできるか。ヒトラーはカルト集団のボスであると同時に、世界観を持った「予言者」として描かれている。その言葉は狂気と同時に哲学の領域にある。ニーチェの強者の思想が彼を鼓舞していく。そして、エゴに走る取り巻きの愚劣さの中で、ゲッペルス一家の忠誠心だけが際だつ。<ヒトラー=哲学>なき世界に生きられぬと子供6人を毒殺し夫婦で自殺する姿は正気を失った鉄の意志の最期を見る。
 ユダヤ人や連合国、旧ソ連から批判の声が上がるのは当然だろう。映画は戦争の悲惨さを描きながら、国家社会主義=ナチズムを追体験しているからだ。だが、そういう作業を通じて描きたかったものがあるということも重い。翻って、日本にはそのような内発的な想像力があったのかどうか。映画を通じ、彼我の落差を感じさせられる力作だ。

★★
*6 「リンダ リンダ リンダ」(山下敦弘監督。ペ・ドゥナ。前田亜季。香椎由宇)
 やっぱりブルーハーツってのは強いということか。映画の出来はひどく悪いのに、ブルーハーツの歌が流れるだけで、50点が最低加算されてしまうのだ。「リンダリンダリンダ」とか「終わらない唄」とか、熱いな、青春だよね。
 高校生活最後の文化祭にバンドをやることになった女子高校生。ささいなことからトラブってしまい、悩んだ挙げ句、留学生の韓国人の女の子をボーカルにスカウトして再出発。徹夜徹夜の猛練習。その合間に小さな恋もあります。忙しいぞ、女子高校生。物語にはひねりもなければ、ギャグもない。なんだか不器用に一生懸命な姿を描いていくのだ。もっと悩んだり爆発したりするのが若者だろうよ。なんかこのちんまりさがブルーハーツ的葛藤の世界を映し出しているのだろうか。今はそんな時代? 
 落ちこぼれの女子高生映画と言えば、ひょんなことからビッグバンド・ジャズを始めるという上野樹里主演の「スウィングガールズ」。「ジャズやるべ」という山形弁と人物造型がうまかった。

★☆
*7「マルチュク青春通り」(ユ・ハ監督、クォン・サンウ。ハン・ガイン。イ・ジョンジン)
 その名の通り青春ドラマ。1978年、韓国の高校にはまだ軍事政権の監視員が駐在していた時代。堅苦しさの一方で、高校生たちはあり余るエネルギーの噴出口を探し求めていた。ソウル郊外マルチュク通り。そこの高校に主人公のヒョンスが転校生としてやってくる。おとなしい優等生の彼こそ実は「炎の転校生」だった。ブルース・リーに夢中で、ラジオの深夜放送でポップスを聴く毎日。バスケットを通じて仲間ができた頃、バスの中でオリビア・ハッセのような美少女ウンジュを見つける。恋と友情と喧嘩と訣れあり。
 独創性に富むというよりは、どこかで見たような物語展開はいつもながらの韓国映画である。しかし、役者がいい。かっこいい男もそうでない男も、それぞれに存在感があるのだ。クォン・サンウは優しい顔だが、脱いだらすごい! ライバルで親友役のイ・ジョンジンはほれぼれするほどの美丈夫ぶりだ。軍事政権の権力を映すように学校には暴力が充満している。繰り返される日々のガチンコ勝負。日活の石原裕次郎の活劇じゃないが、かっこいい不良は魅力的ということか。その迫力もみせどころのようだ。
 ブルース・リー「死亡遊戯」とジャッキー・チェン「酔拳」の対決がほほ笑ましい。ある時代の青春模様を鮮やかに切り取って、なつかしくさせる。

★★
*8 「奥さまは魔女」(ノーラ・エフロン監督。ニコール・キッドマン。ウィル・フェレル)
 人間界に降りて普通の恋に憧れている魔女イザベル。ひょんなことからテレビドラマ「奥さまは魔女」の魔女サマンサ役に抜擢される。ダーリン役の男性は「自己チュウー」でいかさないけれど、なんとなく気になっている。案の定、いろいろあって好きになる。本当の自分を受け入れてもらうためには秘密にしていた魔女であることを明かしてしまう。さて、愛していると思っていた女性が魔女だったら男はどうする? 恋の行方はどうなるか。それが問題だ。
 キャリア・ウーマンの恋愛を描いた「めぐり逢えたら」や「ユー・ガット・メール」といったラブストーリーの女性監督がメガホンを執った。主役はトム・クルーズと別れてから、ほんとうの恋じゃなかった、本当の傑作を求めて熱演を続けるニコール・キッドマンである。近年の若すぎる役(たとえば「コールドマウンテン」とか)は痛々しいというか結構無理があったが、この魔女の若妻役は演技の範囲内でとてもチャーミングだ。映画ではおきまりの鼻ピクピクもあり、なつかしドラマの顔面芸を楽しめる。しかも「奥さまは魔女」は二重の入れ子状態になって、予測可能な安心感の中で展開する。
 この映画のターゲットもやはりキャリア・ウーマンであることは間違いない。男社会・企業社会の中で、自らの才能と努力で、やり手として一目おかれる存在になった女性が今では少なくない。そんな女性たちが自分の立場や能力を隠して普通の恋をした時、ほんとうのことは告白すべきかどうか。というテーマにアナロジーすることができる。まさに、箒(=才能と努力)を手に「翔んでる(富んでる)」女性たちがよろいを脱いで日常に還流する物語である。男はいったんは驚き、腰が引けてしまう。では恋は成就しないのか。いや、夢見る力があればそんなことはないとのメッセージをこの映画は送る。それって、ひどく曖昧ではあるけれど、納得できる結末か。

★★★★
*9 「ライフ・イズ・ミラクル」(エミール・クストリッツア監督・脚本・制作・音楽。スラブコ・スティマチ。ナターシャ・ソラック)
 第2次大戦下のベオグラードで繰り広げられる人間喜劇を描いた「アンダーグラウンド」、ドナウ川に暮らす漂白の民の一族の激しくも楽天的人生を描いた「黒猫・白猫」の天才監督がまたまた傑作を作った。
 今度は分裂に向けて加速する旧ユーゴスラビアのボスニア。1992年。線路を引くためにやってきたセルビア人の技術者ルカ。多数派のムスリム勢力との間で紛争が勃発。息子のミロシュは兵役に取られ、しかも捕虜となる。オペラ歌手の妻はハンガリー男と駆け落ちしてしまう。ただでさえ、冴えない顔の上、悲しみの淵にいるルカの前に突然若い美女がやってきた。彼女サバーハは実はセルビア側の手に落ちたムスリム人で捕虜として、息子との交換材料にする手はずだった。しかし、一緒に暮らしていくうちに、ルカとサバーハは好意を寄せ合うようになる。捕虜交換の時期を前に、2人は自由に生きる道を選ぼうとするが、突然戻ってきた妻、セルビア人勢力、ムスリム人勢力にも追われて、絶体絶命……。
 クストリッツア監督の作品に共通するのは人間への賛歌だ。人間は制度がどうなろうと生きている。制度や体制があるから人間があるのではなく、まず人間ありき。人間こそ価値というのが監督の思想だ。
 悲惨さが伝えられたボスニア紛争だが、この映画には戦争の生々しさはない。戦争なんてクソくらえ。鉄砲の弾が飛んでこようと、音楽は心に響くし、チェスの醍醐味は変わらない。何があろうと自分の生活を楽しむのだ。人生は愛なのだ。そして、奇跡は起こる! 絶望的なのに、決して暗くはないのは監督が人間を信頼しているからだ。
 ついでに、この映画の主役はロバでもある。ロバは失恋して泣き、自殺しようとするのだ。それは時代の悲惨さを写す鏡であり、実はロバの姿をした守護天使なのだということを私たちは知らされる。ロバの身を挺しての最後に活躍するだろうとはあらかじめ予想できたことだが、実に見事な登場だ。クマあり、ニワトリあり、ネコありイヌあり。これだけ動物たちが生き生きしている映画も珍しい。

★★
*10 「NANA」(大谷健太郎監督。中島美嘉。宮崎あおい。松田龍平)
 矢沢あいの人気コミックの映画化。噂でしか知らんが、関連本は出るは、ファッションもどうしたやら、若い女の子には大人気らしい。悔しいけど、おじさんには無縁だぞ。
 主人公は同じ20歳の大崎ナナと小松奈々の2人のNANA。
 上京の列車で隣り合わせた2人は、ひょんなことから東京で同居することになる。ナナにはロックミュージシャンになる夢と別れた元恋人ミュージシャンを見返してやろうという意地があった。一方の奈々は同級生の男の子を追って東京暮らしに憧れての出発だ。その2人が体験する体当たりの青春メモリー。
 男の子のように自立を目指すナナと、一生懸命だけど頼りなげの奈々は対照的だ。片方は貧しさとか孤独を抱え、片方は平凡だけど開明的なモダンファミリーの愛の中にいる。しかし、本当は2人は若い女性の盾の両面でもある。同性愛のような2人の相手をいたわる態度は結局は自己愛そのものである。
 ファッションあり、男の子との恋愛あり、自分探しあり、友情あり。若い女の子の直面する多くの切実なテーマがてんこ盛りで、しかもキャラクターが生き生きしているから、人気がでるのは当然だろう。とりわけミュージシャンの中島美嘉のスタイリッシュな熱演が光る。いいぞ、中島美嘉。秘めた情熱オーラが充満している。ラブシーンを含め、彼女の「ここまで頑張るの!」という全力投球ぶりが本当に気持ちよい。
 2人が目指すものは自分のしっかりとした居場所のように思われる。もがけばもがくほど彼女たちは自分自身の周りにあるしょうもない壁を打ち壊していくのだ。ハッピーになるかどうか? わからんけれど。その方向にあるものは遠からぬ青春卒業のように思えるのは私だけか。

★★★
*11 「愛についてのキンゼイ・レポート」(ビル・コンドン監督。リーアム・ニーソン。ローラ・リニー。R−15)
 現代<性>科学の発展に指導的役割を果たしたキンゼイ博士の伝記物語。
 父親の反対を押し切って動物学者となり、タマバチ研究に没頭するキンゼイは膨大な標本最終の結果、タマバチには1つとして同じものがいないことを発見して感動する。それは父親のくびきを離れられる喜びでもあった。そんな折り、関心を寄せてくれた女学生と知り合い、一直線に結婚する。セックスは初めてだったが、気取ることなく真面目に探求する。そんなことから性に関する相談を受けるようになったキンゼイは、タブーと秘密に満ちている人間の性を実証的に科学しようと決意する。彼にとって、タマバチがそうであるように、人間もまた1人として同じ存在ではなく、性のあり方が多様であっていいことを承認することだった。
 とにかく、性のデータを集めるために、キンゼイが徹底的に赤裸々な聞き取りをしていく姿勢に驚くと同時に、その情熱は感動的だ。しかも、性行為は「子孫を生むため」にあるという宗教的な掣肘(せいちゅう)を超えて、性の実態はもっと自由であることを明らかにする。そのことで、「体制」の批判を浴び、孤立していくが、それでも事実を持って性のタブーを破るための歩みを止めない。
 テーマは多彩だ。父親と子の対立と回復、夫婦のセックスと愛の問題、そして何よりも同性愛の認知だ。科学者である彼は自分の内奥を凝視し、同性愛までも体験する。そして、男と男、女と女の性愛が犯罪もどきに扱われていたのに対しても、正しいかどうか分からないとしながらも、事実を認めていく。科学ってのは本来ラディカルであることを見事に表している。ラストシーンで、なにも世の中は変わっていないのだな、と嘆くキンゼイに対して、女性の同性愛者が「あなたの本で変わりましたよ。あなたは命の恩人です」とキンゼイの手を握るシーンは美しく印象的だ。
 人間も動物も多様な存在でいいのだ。映画はそう訴える。リーアム・ニーソンはキンゼイの科学者的明晰(めいせき)さ、人間としての奇人ぶりを、見事に演じている。センセーショナルに扱われてきたキンゼイ・リポートの背後に、事実を持って世界に挑もうとする「ビューティフル・マインド」があったことを私たちは知るのだ。

★★★
*12 「七人の弔」(ダンカン監督・脚本・主演。渡辺いっけい。高橋ひとみ。いしのようこ)
 人里離れた山間部で合宿をする7人の子供と親たち。ふだんは児童虐待を続けている親たちがこのときばかりはなぜかやさしい。それもそのはず、彼らは子供たちを裏切ろうとしていたのだ。親の不審なそぶりに気づいた子供たちは手配師を追求する。真実を聞き出したものの、すでに巨大な組織が動き出したことを知った子供たちに反撃の道はあるのか。
 オフィス北野の最後の刺客? ダンカンの初監督作品だ。ファミリー映画であるが、なんとも暗い。暗いのは世相を映しているからだ。金に困り、暴虐を繰り返す親たち。そして、子供より自分が大事な親たちは悪魔に心を売ってしまうのだ。そして、若い頃を勝手に振り返り、カラオケに興じる脳天気ぶり。
 ダンカンはのっぺらぼうな語り口で、親と子供たちをギリギリと締め上げていく。自分勝手なエゴがぶつかり合う世界では救いはない。親は皆、鬼畜であるが、その影である子供たちも鬼畜の道を選ぶ。かろうじて、父さんが世界一好き、という子供の親のみが我に返るのがせめてもの救いだ。
 北野ブルーはないけれど、間の抜けたギャグは北野流のお約束か。たけし軍団の代貸ダンカンの心の闇を感じさせる佳作である。

★★★
*13 「ランド・オブ・ザ・デッド」(ジョージ・A・ロメロ監督。サイモン・ベイカー。デニス・ホッパー。アーシア・アルジェント。PG12)
 ゾンビ・ムービーの傑作だ。人食いゾンビがただ暴れるだけだと思ったら、大間違い。なんというか階級映画というか「人権」映画なのだ。
 増殖するゾンビに追いつめられた人間は都市を囲い込んで暮らしている。その前線を守るのは傭兵たち。彼らは花火で目くらましし、失われたエリアから物資を調達し、ゾンビの殺戮を繰り返していた。しかし、黒人のリーダーを先頭に、ゾンビは静かに経験と知恵を身につけ進化を続けていた。そして彼らは、特権をむさぼる人間社会の支配階級が住む高層タワーを目指し、行進を始めた。一方、庶民たちは豊かな暮らしとは無縁のスラム同然の環境の下で、ゾンビと対峙している。人間たちの中にも、一部の支配を打ち破ろうとするレジスタンス的な動きも進んでいた。かくして、ゾンビと大衆の標的は、タワーの支配者となった。前には支配者、後ろにはゾンビという中で、自覚した傭兵たちの中には自由を求める動きも進む。
 確かにゾンビはグロテスクだし、粗暴だ。だが、彼らは呼吸をし、食物を摂取し、「生きている」のだ。彼らは死に切れていない生者なのである。それを無差別に殺戮する姿には、思い上がった人間が陥るであろう、あるいは何度も歴史の中繰り返してきた非道が投影されている。悪いのはゾンビなのか、人間なのか。
 人間を食わずにはいられないゾンビと人間とは和解できないかもしれない。しかし、ゾンビは人間の成れの果てである。彼らは人間に戻れない人間なのだ。その関係を整理して、それぞれの居場所を求めていけば「共存」できるようにも思われる。相も変わらん楽観論かもしれないが。ニューオーリンズのハリケーン被害でアフロアメリカ系の貧困層に多数の犠牲が出たことが問題視されているが、本作は階級分裂が進む現代社会への鋭い批判であるように感じられた。
 

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