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北海道文学を中心にした文学についての研究や批評、コラム、資料及び各種雑録を掲載しています

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ふみくらの奥をのぞく1 

公益財団法人北海道文学館が収集した文学資料は現在、道立文学館に所蔵されている。その経緯と資料のいくつかを紹介する機会があり、その文章をここに転載する。

■安部公房と『無名詩集』「札幌文学会宛てはがき」
 安部公房(あべ・こうぼう、一九二四〜一九九三) 作家。東京都出身。本籍地は旭川市。幼少期を満州で過ごす。代表作に『壁―S・カルマ氏の犯罪』『砂の女』『箱男』など。

 ★東京と満州(中国・東北地方)と旭川(東鷹栖)を故郷とする作家、安部公房は新鮮で刺激的な実験小説を多数残している。だが、詩集は一冊しか残していない。それが一九四七年五月ころに自費出版された「無名詩集」である。公房二十三歳。夫人となる山田真知子と出会い、同棲したばかりだった。基底に流れるのは孤独な魂の凝視である。
  じつと噛みしめて
  もう二度と笑わなくなつた唇が
  細々と語る悦びを私は愛した   
 ガリ版で刷り、ホッチキスで留めただけ。表紙にはデザイン画もなく文字のみで「無名詩集 安部公房」。わら半紙六十二ページの極めて質素な冊子。それを一冊五十円で頒布したが、ほとんどが売れ残ったという。
 同人誌「札幌文学会」のアンケートに答えたはがき(一九五四年)がある。「特殊性の中にほうがん(四字傍点)されない普遍性はない。同時に、普遍性につらぬかれない特殊性は存在しない」「地方という言葉を、風土的にとらえることは反対だ」
国家の崩壊を体験した公房はナショナルなものの向こうを見ている。

アイヌ民族の文学
〈アイヌ民族の文学〉資料の主たるものについては、北海道立文学館常設展示「北海道の文学」をご覧いただくのが一番の入口だろう。歌人のバチェラー八重子、違星北斗、歌人・詩人の森竹竹市、小説家の鳩沢佐美夫、アイヌ学・言語学者の知里真志保、ユーカラ伝承者の金成マツ、知里幸恵、アイヌ文化研究者の萱野茂―らの原稿、ノート、著作などを展示している。本稿ではその一部を紹介する。

 知里幸恵(ちり・ゆきえ、一九〇三〜一九二二) ユーカラ伝承者。登別市出身。アイヌ自身による初めての神謡の記録『アイヌ神謡集』を言語学者の金田一京助のもとでまとめたが、十九歳の若さで夭折した。同書は柳田國男編集「炉辺叢書」の一冊として翌年出版された。

 ★知里幸恵は少女時代を雪の街・旭川で暮らした。郊外から職業学校に通うため、毎日片道一里半(六キロ)近くの道を息切らし歩いた。百四十センチに満たぬ体では、雪の日など二時間近くはかかる。勉学に励む彼女には、いわれなき民族差別がのしかかっていた。それを全身で受け止め、一歩一歩跳ね返さねばならなかった。孤独な脳裏では生まれ故郷・登別の美しい景色、神謡のフクロウの神などの歌声がめぐっていたのかもしれない。通学の無理が響いて心臓病を患い、十九歳で他界した。しかし、珠玉の『アイヌ神謡集』を、命をかけて残した。北海道を「私たちの先祖の自由の天地」と熱く記した知里幸恵。豊かな神謡の世界、自然との共生思想などへの共感は広まっている。
 『アイヌ神謡集』(郷土研究社、一九二三)には「其の昔此の廣い北海道は、私たち先祖の自由の天地でありました。天真爛漫な稚児の様に、美しい大自然に抱擁されてのんびりと楽しく生活してゐた彼等は、眞に自然の寵児、何と云ふ幸福な人だちであつたでせう」との序文があり、梟の神の自ら歌った謡「銀の滴しずく降る降るまわりに」の一節は広く親しまれている。

 違星北斗(いぼし・ほくと、一九〇一〜一九二九年) 歌人。後志館内余市町出身。行商をしながら道内各地のコタンを訪ね、アイヌ民族の地位向上・復権を訴えた。アイヌ民族を思う悲痛な叫びを綴った作品を残すが、二十八歳の若さで病没した。「アイヌという新しくよい概念を内地の人に与えたく思う」 (遺稿集『コタン』希望社、一九三〇)
 ★違星北斗の「備忘録」は「(日本紀元)2585・9・3 違星北斗」と表紙にある。上京して東京府市場協会で働きながら、講演会や講座などで学んだ内容などの覚え書き。柳田國男「南島研究の現状」というページもある。

 金成マツ(かんなり・まつ、一八七五〜一九六一) ユカxラ伝承者。登別市出身。知里幸恵、高央(たかなか)、真志保ら三姉弟の叔母。約百六十冊のユーカラノートを残した。
 ★「アイヌ説話」ノート 金成マツの残したユーカラノートの1冊。表紙裏に「金成マツ筆 エンピツ註は真志保筆」とある。
 
 知里真志保(ちり・ましほ、一九〇九〜一九六一年) アイヌ学、言語学者。登別市出身。北海道大学教授。学生時代から、自らの民族の固有の言語・文化に関する論文を発表し、独自のアイヌ学の確立を目指した。
 
 バチェラー八重子(ばちぇらー・やえこ、一八八四〜一九六二) 宗教家、歌人。伊達市出身。 英国人で聖公会牧師・アイヌ研究家ジョン・バチェラーにより洗礼を受け、のちに養女となる。同胞のために祈り、伝道する生活を送る。歌集『若きウタリに』(一九三一)を出版。
 ジョン・バチェラー(じょん・ばちぇらー、一八五四〜一九四四) 宣教師・アイヌ文化研究者。英国人。静養のため函館を訪れて以降、日高、胆振、札幌などを訪れる。布教に務める一方、北海道庁でも働いた。太平洋戦争で敵性外国人とされ、英国で生涯を終えた。
 ★『蝦和英三対辞書(AINU―ENGLISH―JAPANESE DICTIONARY)』(北海道庁、一八八九) 北海道庁は農業、拓殖関係の書籍を多く出しているが、庁外の個人の本を扱うのは珍しかった。

 森竹竹市(もりたけ・たけいち、一九〇二〜一九七六) 歌人・詩人。胆振管内白老町出身。アイヌの青年の心情を赤裸々に告発する作品を発表した。『若きアイヌの詩集 原始林』(一九三七)、『今昔のアイヌ物語』(一九五五)を自費出版。白老民俗資料館初代館長。私はポロト湖に近い白老町日の出町五丁目(旧東町三区)に生まれ育った。森竹竹市さんとは話したことがないが、なんどかすれ違ったことがある。
 ★『若きアイヌの詩集 原始林』 発行は白老ピリカ詩社(自宅)。著者名では「竹一」を使い、「筑堂」と号している。十九の詩、九章の短歌からなる。「煮えたぎる血潮をペンに滲ませて/若いウタリに強く呼びかく」(短歌「高らかに叫ぶ」より)

 鳩沢佐美夫(はとざわ・さみお、一九三五〜一九七一) 小説家。日高管内平取町出身。療養生活が続く中で、病院の民主化に努める一方、文学に関心を寄せ、「遠い足音」「証しの空文」などを執筆し脚光を浴びる。同人雑誌「日高文芸」を創刊。アイヌ問題を内と外から告発した「対談・アイヌ」を発表するが、翌年世を去った。

吉田一穂と和田徹三
 吉田一穂(よしだ・いっすい、一八九八〜一九七三) 詩人。渡島管内木古内町出身。「海の詩人」「孤高の象徴詩人」「日本のマラルメ」などとも呼ばれた。代表作に『海の聖母』『未来者』など。
 ★吉田一穂は少年期を過ごした日本海に面した後志管内古平町を愛し、同地を「白鳥古丹」と呼んだ。代表作「白鳥」の一節を記した書(200×47a)が残されている。
  未知から白鳥は来る
  日月や星が波くゞる真珠海市(かひやぐら)
  何処へ 我れてふ自明の眩暈(めまひ)
 ★色紙「半眼微笑」 仏像を見ての感銘を「半眼微笑」(はんげんみしょう)と表現した。
詩集『海の聖母』(金星堂、一九二六) 吉田一穂の第一詩集。装丁は北原白秋『月と胡桃』、稲垣足穂『少年愛の美学』などでも高名な亀山巌(一九〇七〜一九八九)。
 
 和田徹三(わだ・てつぞう、一九〇九〜一九九九) 詩人。後志管内余市町出身。詩誌「哥」を創刊して詩活動を始め、「椎の木」「日本未来派」などに参加。のち「湾」に拠り、詩、詩論、訳詩などを発表した。仏教思想を踏まえた形而上的な詩的宇宙が展開されている。
 ★マリモの歌の色紙 (26*21センチ) 「マリモの歌」は遠山昭作曲による一九七〇年度芸術祭参加混声合唱曲で、「コタンの歌」八曲のなかの一曲。
  マリモは 
  永遠のしずけさのなかにいる。 
  はがゆいほどの しずけさのなかで 
  遠い神話と たわむれている。 
  おとしあなのような 
  しずけさのなかで             合唱曲「コタンの歌」より

更科源蔵「原野の詩人」と交友
 更科源蔵(さらしな・げんぞう、一九〇四〜一九八五) 詩人。アイヌ文化研究家。弟子屈町出身。開拓農民の子として生まれ、その現実を凝視する表現を続け「原野の詩人」と呼ばれた。一九二八年、小樽に伊藤整を訪ね、ともに上京し尾崎喜八、高村光太郎を訪ねる。伊藤整との交友はその後も続いた。戦後まもなく編集を担当した「北方風物」誌にはその人脈を生かし、武者小路実篤、室生犀星、高村光太郎ら多くの文学者・画家らが寄稿している。代表作に『凍原の歌』(フタバ書院、一九四三)『熊牛原野』(広報新書、一九六三)など。アイヌ文化研究書も多数。一九六七年、北海道文学館設立ともに初代理事長。
 ★『更科源蔵詩集 種薯』 一九三〇年十二月に北緯五十度社から刊行された更科源蔵の第一詩集。「原野の農民生活を基底とした現実告発と人間愛の詩風が高く評価された」(佐々木逸郎)。
 ★『更科源蔵お伽噺詩集 河童十二ヶ月』(複製) 一九四一年十月に刊行された更科源蔵の手づくり詩集。北海道農業会の用紙を使用している。孔版印刷で三十部作成し、親しき友に送ったと言われる。更科源蔵には『河童暦』『河童道』(版画はいずれも川上澄生。義理の兄弟であった)という作品もある。
  風は吹き過ぎる
  季節は移る
  だが蒼鷺は動かぬ
  奥の底から魂が羽搏くまで
 
  痩せほそり風に削られ
  許さぬ枯骨となり
  凍った青い影となり
  動かぬ
       更科源蔵の色紙「蒼鷺」(『凍原の歌』収載より)

「北緯五十度」の詩人たち
 更科源蔵は一九三〇年一月、詩誌「北緯五十度」を創刊する。主なメンバーには渡辺茂、猪狩満直、葛西暢吉、真壁仁、中島葉那子、竹内てるよらがいる。「北緯五十度」は日本の北限(当時の南樺太国境線)であるが、ヨーロッパ文化の花開いた緯度でもあり、高村光太郎が命名した。粗末な雑誌であったが、作品には苛酷な現実に屈しない理想と情熱があふれていた。紆余曲折もあったが、一九三五年まで全十一冊が刊行されている。

 猪狩満直(いがり・みつなお 一八九八〜一九三八) 詩人。福島県出身。一九二五年、阿寒に入植する。詩作に努める一方、泥炭地での生活は苦闘の連続であった。『移住民』は詩壇に大きな反響を呼んだ。
 中島葉那子(なかじま・はなこ、一九〇九〜一九三九) 詩人。空知管内栗山町出身。竹内てるよと交友、詩作に入る。農民運動の影響を受け、論理的で先鋭的な詩を書き続けた。弟子屈の更科源蔵の詩集『種薯』に感動し、結婚するが、二女をもうけた後、二十九歳で急逝した。
 国松登(くにまつ・のぼる、一九〇七〜一九九四) 画家。函館出身。「氷人」シリーズなどで知られるが、若い時から句作に親しみ、斎藤玄の「壺」に参加した。句誌「道」の客員待遇。札幌文化団体協議会初代会長。道立北海道文学館建設期成会幹事。

寒川光太郎と高橋揆一郎 「道産子」芥川賞作家の草分け
 寒川光太郎(さむかわ・こうたろう、一九〇八〜一九七七)小説家。留萌管内羽幌町出身。法政大学英文科中退。植物学者の父親を手伝い樺太でも暮らした。一九四〇年、「密猟者」で第十回芥川賞受賞。北海道出身者としては初めて。太平洋戦争ではフィリピンで終戦、三年間抑留生活を送った。著書に『サガレン風土記』『北風ぞ吹かん』『遺骨は還らず』など。
 高橋揆一郎(たかはし・きいちろう、一九二八〜二〇〇七) 小説家。歌志内市出身。北海道第一師範学校中退。炭鉱会社で働きながら創作を続けた。退職後には画才を生かしイラストレーターとして活躍する。渡辺淳一らを輩出した同人誌「くりま」にも参加した。一九七八年、北海道在住作家として初めて、「伸予」で第七十九回芥川賞を受賞。著書に『観音力疾走 木偶おがみ』『北の道化師たち』『知子』など
 ★寒川光太郎は植物学者の父、菅原繁蔵が樺太(サハリン)で勤務していたことから、助手として鉛筆描きされた原図に墨入れをして「樺太植物図誌」の完成に尽力している。父親の原稿を携えて上京してからは、一転、古書店二階にこもって小説の執筆に打ち込んだ。佐々木翠(船山馨と結婚、本名・坂本春子)らと同人誌「創作」を創刊して発表したのが「密猟者」であった。同作は野獣の官能を持った猟の名人「豹」を主人公に、北方の大地と海での猟師の激闘をダイナミックに描いた傑作であった。終戦後はフィリピンで捕虜生活を送るが、そのさなかに手作りした絵入りの句帳、メモ帳など貴重な資料を残している。それらは遺族のご厚意で当館に保存されている。
 ★高橋揆一郎は「ヤマの街」歌志内で生まれた。炭鉱員の父親を十三歳の時に事故で失うが、自らも事務職ながら炭鉱に勤めた経験を持つ。中年の女性教師と教え子の再会を描く「伸予」で芥川賞を受賞するのは五十歳、遅咲きであった。売れっ子になっても東京に出ることなく、北海道に拘り続けた。いかつい顔と、ひょうひょうとした愛らしさ。炭鉱労働者のDNA。苛烈な運命に翻弄されながらも、絶望せず底辺を生き抜く人間のエネルギーが、高橋揆一郎を文学の前線に押し出した。石狩湾の浜風かおる丘陵にある墓には、「面壁十年」と刻まれている。作家の孤独な悪戦は大きな力となり、北海道の地で文学を志す者を厳しく、優しく見守っている。

坂本亮と綴方教育連盟事件 教室から先生が突然いなくなった時代
 坂本亮(さかもと・りょう、一九〇七〜二〇〇七) 教育者。函館市出身。北海道綴方教育連盟の中心メンバー。戦後は札幌市で作文教育を生涯続ける。
★ここに紙いっぱいにあふれる文字が記された古いメモがある。「たたく。蹴る。座らせる。脅かす」。生々しい警察での取り調べの様子が克明に記されている。
 逮捕された教員の一人が「獄中」で書いたともいわれている「北海道綴方教育連盟事件」の貴重な資料である。
 北海道綴方教育連盟事件は一九四〇年(昭和十五年)十一月〜翌年四月に、日常生活をありのまま書く綴方教育に取り組んでいた道内の教員らが、「貧困などの課題を与えて児童に資本主義社会の矛盾を自覚させ、階級意識を醸成した」などとして逮捕された弾圧事件。逮捕者は旧内務省「特高月報」によると五十六人、旧文部省「思想情報」では七十五人。十二人が起訴され、釧路第三尋常小教員だった故坂本亮さんら十一人が執行猶予付き懲役刑確定(一人は公判前に死亡)するという非道なものだった。
 旭川出身の作家、故三浦綾子の長編小説『銃口』はこの事件を題材にした優れた文学的な証言でもある。
 これらの資料は運動のリーダーだった坂本亮が亡くなるまで大切に保管していたものである。
 教室から突然先生がいなくなり、その理由をだれも知らないという「治安維持法」の恐ろしさ―。びっしりと書かれた文字は再びそんな時代が来ないように、今なお警鐘を鳴らしている。

「まごころの旗」「同人通信」 開拓集落で教育に燃えた情熱を奪う
 ★「北海道綴方教育連盟事件」で逮捕された教員の中には厳しい開拓集落で新しい文化を伝えていた人も多かった。その1人が横山真である。
 彼が根室市郊外の厚床の小学校時代に残した作品集「まごころの旗」「ぶし 原野に春はきっと来る」を文学館で見ることができる。二色刷りで、綴じひもには同じ色を使うなど、子どもたちに全力で向き合う情熱が伝わってくる。畑仕事を手伝う開拓地の農家の小学生の暮らしや思いが素朴な作文に綴られている。 横山は十勝管内豊頃町大津小学校勤務の時に逮捕され、永い拘禁生活のために衰弱し、公判審理を受ける前に二十八歳の若さで亡くなった。可能性を秘めた実践教育は弾圧事件で永遠に閉ざされてしまったのである。
 北海道綴方教育連盟は教員たちによる作文教育の研究グループであった。メンバーたちは横山真と同じように、それぞれの地域の学校で「生活・島の子」「ひやま作文」「北日本海の子供」「原野」などといった文集を出していた。
 全体での研究誌が「同人通信」。当館には三六年九月の創刊号のほか、欠号が数号分あるが、弾圧直前の三九年秋までに発行されたものが保管されている。

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