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原田康子の方へ

原田康子 『挽歌』から『海霧」へ
 

■渡辺淳一と原田康子
 北海道・上砂川生まれ札幌育ちのベストセラー作家、渡辺淳一について前回、小説『エ・アロール』を中心に紹介した。渡辺淳一は二〇一五年四月三十日が一周忌で、命日の愛称は「ひとひら忌」と決まった。これは新情痴小説の傑作「ひとひらの雪」から取られた。私たちは札幌の四季を描き、季語として知られるきっかけとなった「リラ冷えの街」から「リラ冷え忌」となることを密かに希望していたが、残念ながら実らなかった。
 とはいえ、その北国の春から初夏の季節に、北海道立文学館で「没後1年・渡辺淳一の世界 ―『白夜』の青春 リラ冷えを往く」という特別展を開催することができたのは、嬉しいことであった。私は展覧会の企画・準備・実施を責任者として担当したのだが、新しい発見も少なくなかった。
 渡辺淳一というと「男女小説」「伝記小説」「医学小説」の達人というふうに思われているが、本質的には私小説家であり、その原体験は労働者があふれ、繁栄と事故が相次いだ炭鉱マチにあったと言ってよい。いわば北海道体験こそ渡辺文学の基調であったことをあらためて知ったのは大きな収穫であった。
 「わたしの祖母は北海道中央部の歌志内という町に、祖母の弟はすぐ隣りの上砂川という町に住んでいた。若いときに佐渡から渡ってきたのだが、この一帯が北海道有数の空知炭田の中心地であったことから、この地に住みつくようになったようである」と晩年のエッセー『瓦礫の中の幸福論』に書いている。「佐渡」というと金山採掘などを連想する。一方、父方の祖父は炭鉱で働いていたという。そのあたりを含め、一族には鉱山(ヤマ)が関わっているように思われるのだ。
 炭鉱には過酷で不条理な労働がついて回る。渡辺淳一は「虐待されていた朝鮮人のことは、なお頭に深く残っていた」とも書き、人の良い日本人のおじさんが状況によって残酷な差別者となる姿に困惑を覚えたことを記している。コンサバティブな思想の持ち主と思われがちだが、彼のアジア民衆への理解、戦争批判発言には炭鉱マチで見聞した差別体験があったことは間違いない。
 特別展では渡辺淳一が二十二歳の時、札幌医大校友会雑誌「アルテリア」十一号に発表した初めての小説「イタンキ濱にて」という作品を全文紹介した。舞台は室蘭のイタンキ浜であるが、主人公の名前の中に「神威」という生まれ故郷の山の地名が織り込まれており、労働現場の風景などは炭鉱のそれを思わせる。医師としての道を歩まなかったなら、あり得たかもしれない渡辺文学の一つの可能性を垣間見せるものであった。それは安部公房などとクロスしていくはずのものであった。

 渡辺淳一が和田心臓移植事件批判の余波で札医大にいられなくなり、東京へ向かったのは一九六九年、三十五歳の春である。多くの人たちが大学の講師というエリートの職を捨て、筆一本の作家として生きるという渡辺の選択を心配した。
 その中の一人が『挽歌』のベストセラー作家の原田康子である。「どうして渡辺さんはお金になる医師をやめて、貧しい作家になりたいのか、その気持ちがわからない」と気遣ったというエピソードは有名である。
 原田康子は東京に出た渡辺淳一にインパネスを贈り、渡辺淳一はそれを着て夜の銀座に繰り出し、大いにモテた。ともに北海道新聞文学賞の選考委員を務めたこともあり、交流は長く続いた。原田康子が二〇〇九年十月二十日に亡くなった時、私は夜分であったが、渡辺淳一の携帯に電話をして思い出を伺ったことがある。先生は知らせてくれたお礼を述べられた後、「『挽歌』の原田さんの登場は衝撃的でした。『悲しみよこんにちは』で一世を風靡したフランソワーズ・サガンのようでした。憧れたね。なにより美しく、チャーミングだった」と語り、しばし絶句したのを覚えている。

■戦争体験と恋愛体験 
 
さて、ようやく原田康子である。原田康子は一九二八年一月、東京に生まれ、一歳で釧路に移る。渡辺淳一より五つ年上である。当時の原田家は家運が衰えていたとはいえ、曾祖父は釧路開祖の一人という名家。その一族の女三代の物語が最後の代表作『海霧(うみぎり)』となった。
 釧路市立高等女学校時代に岩波文庫を通じて外国文学に親しみ、自ら物語を書く早熟な文学少女であった。思春期は戦争に突入していた時代である。オホーツクの津別のベニヤ工場で勤労動員され、釧路空襲にも遭遇する。
 女学校を卒業し、終戦後は雑誌「北東文化」「北方文藝」などに関わる一方、地元紙の東北海道新聞(後に新・北海タイムスと統合)の警察記者となる。こうした一種の文章修行が原田康子の文学的才能に磨きをかけることになった。二十三歳の年、ライバル紙記者の佐々木喜男と結婚する。
 一方、鳥居省三が五二年に創刊したガリ版刷りの「北海文学」に参加しており、原田康子は新聞社を辞め次第に創作活動に専念する。病弱な少女が療養に訪れた温泉地で年上の「シソウハンらしき」男性に惹かれるという『サビタの記憶』は原田康子の少女時代のリリシズムを反映した秀作で、文壇デビュー作として中央の文芸誌「新潮」に掲載されている。
 続いて五五年六月の「北海文学」第十七号から第二十六号まで十回連載されたのが『挽歌』である。同作はさいはての町に暮らす兵藤怜子の愛の物語。戦後的な感性を感じさせる多様な恋愛を描き出すロマンチックな作品であった。

 連載終了と同時に映画化の話が持ち上がった。五所平之助監督が北海道を舞台にした作品を探しており、『挽歌』が目に入ったのである。つまり、『挽歌』は出版よりも映画化計画が先行した、メディア・ミックスの先例と言えるものであった。
 そんな中、『挽歌』は東都書房より五六年十二月刊行されるや七十万部を超えるベストセラーとなった。同作は五七年のナンバーワンを記録している。
 道産子の書籍売り上げナンバーワンは五四年に軽妙で辛口なエッセー集『女性に関する十二章』が大評判になった伊藤整が第一号で、原田康子は二人目である。その後は、『氷点』の三浦綾子、『愛のごとく』『化身』『失楽園』で三度トップになった渡辺淳一しかいない。
 『挽歌』の大ヒットには作品の面白さと同時に、PR戦略もあった。立ち枯れの林の中に立つコート姿の女性を載せた広告は反響を呼び、一年後に公開された映画でヒロインを演じた久我美子のファッションは大流行した。霧の街、湿原の街・釧路は全国に知られることとなった。道東観光、北海道ブームの火付役となった。
 原田康子の家には観光客も訪れるようになり、二十八歳の原田康子はまるでアイドルかタレントのようであった。そうしたブームを避けるかのように、五九年、夫の転勤を機に原田康子は三十年暮らした釧路から離れ、二〇〇九年に亡くなるまで札幌で暮らすことになる(隣家の子どもが後に『聖の青春』『将棋の子』を書いて作家となる大崎善生だった)。
 芸能界ではデビュー作がヒットしながらその後が続かない歌手や芸人がよく見られるが、原田康子の苦闘もそれに似ていた。『挽歌』の大波を超えることは至難の業で、伊藤整から「怠けすぎだよ」と言われたこともあった。『殺人者』『風の砦』『満月』など地道に創作を続けていくが、大きな話題にはならない。

■『聖母の鏡』での無念、釧路を舞台に歴史重ねて
 私見によれば、原田康子が密かに自負し上梓したのが『聖母の鏡』(九七年)である。スペイン取材を敢行した意欲作で、本人も書いているので、ここであらためて記すが、「伊藤整文学賞をもらいたい」と本気で思った作品であった。しかし、同年の伊藤整文学賞は元文芸誌編集長で石和鷹『地獄は一定すみかぞかし』。故人の石和が受けるのは異例である。だが、安岡章太郎以下、純文学系の選考委員が大勢を占める中で、原田康子は『挽歌』の中間小説、読み物作家と見られ、夢は実らなかった。有力候補という下馬評は作家の耳にも入っていたはずで、その失望は大きかった。
 原田康子が『挽歌』超えを果たすのは『海霧』(二〇〇二年)によってである。同作は二〇〇〇年から北海道新聞をはじめとした夕刊に二年三カ月、六三三回にわたって連載された新聞小説である。釧路に入った原田家の歴史を女性の視点で綴った大河小説である。「『挽歌』の原田康子だけでは終わりたくない一心で、ここまで書き続けてきた」と後に記しているが、その熱意が実り、『海霧』が刊行されるや、吉川英治文学賞を受賞したのをはじめ北海道文化賞、北海道新聞文学賞、北海道功労賞を相次ぎ受賞する。原田康子七十五歳。『挽歌』から半世紀近い時間が流れていた。
 私は『海霧』の新聞連載時の担当者であった。素晴らしい文章であるが、極めて地味であり、しかも連載が一年の予定が一年半、二年と延びてしまい、「掲載スケジュールを守ってください」という問い合わせが各社から相次いだ。名作必ずしも容れられずということを感じた。
 『海霧』のいわば大ヒットの原因を挙げれば、まず作品が釧路を舞台にしていたこと。ロマンチックな湿原と深い霧のマチという『挽歌』の世界の魅力がリフレインされた。そして、澤地久枝さんをはじめとした「女の物語」を見つめてきた識者がこぞって激賞し、女性たちを中心に静かに確かに読まれていったこと。そして、吉川英治文学賞受賞により、作品と作家の価値が再確認されたということである(この舞台裏にも女性たちの力があったのだが)。螺旋的な回帰という言葉が許されるなら、初発の感性で書かれた『挽歌』の世界が、時間をかけて熟成され、広いパースペクティブの中に、布置されたのが『海霧』といえよう。
 『海霧』連載中によく真顔で言われた言葉があった。「あっちのほうはどうだい?」。あっちとは連載時期が重なった朝日新聞の池澤夏樹『静かな大地』のこと。同じ北海道を舞台にした作品だけに、「絶対に負けたくない」と気にかけていたのだ。童女のような、それでいてプロ作家らしい意地のようなものを懐かしく思い出すのである。
(「百合が原文芸」第7号、2015年10月1日所収)

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加清純子と原田康子と東北海道新聞

 原田康子(はらだ・やすこ、一九二八〜二〇〇九)はベストセラー小説『挽歌』(一九五六年初版刊行)で知られる北海道を代表する女性作家である。原田は一九四九年に釧路の地域紙だった「東北海道新聞」に入社し、サツ回り(警察担当)を皮切りにそのころ珍しい女性記者として活躍した。五一年に北海道新聞釧路支社記者の佐々木喜男と結婚、一時退社するが、ほどなく校閲記者として復帰、五三年まで勤めた。
 渡辺淳一の『阿寒に果つ』のヒロインのモデルである加清純子(一九三三〜一九五二)は五二年一月に釧路に岡村昭彦を訪ねた後、阿寒山中で亡くなる。東北海道新聞もこの天才少女画家の失踪と死を報道した。同紙は四ページ建て夕刊紙で、記者は十人に満たず、大事件報道は総力戦となる。原田は現場経験もあり、校閲をしながら純子の動静に接していたはずである。
「高台の大部分は住宅地である。宮本町も住宅地ではあったけれど、町内の一劃に刑務所があった。新居の前のだらだら坂を折れまがると、まもなく刑務所の高い塀に突きあたる。刑務所のせいかどうか、ひっそりしたかいわいだった」(原田康子『窓辺の猫』所収「宮本町」)

 原田の新婚宅近くには釧路刑務所があった。純子は三度岡村に面会に来ており、原田とすれ違っていたかもしれない。
 鳥居省三の発行する「北海文学」に『挽歌』の連載が始まるのは五五年。ヒロイン兵藤怜子が中年男性の桂木に惹かれ、湿原で薬物死という悲劇も起きる愛と喪失の物語は、軍国少女から出立したアプレゲールだった原田の青春を映す。
 ヒロイン怜子は「みみずく座」という地方劇団の美術部員であり、友人の男性は絵を描いているなど、物語は加清純子の生きた世界に通じるものがあった。盛厚三『「挽歌」物語』によれば、原田は佐々木武観主宰の劇団「北方芸術座」の文芸部に、妹たちも美術部、演技部に参加していた。
(北海立道文学館特別展『よみがえれ!とこしえの加清純子 再び』、2022年1月22日解説文)

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